◆「渡辺橋駅」
http://www.nrr.co.jp/station/watanabebashi.html
駅出入口や改札口の外側は中之島線の各駅共通の特徴である不燃性木材とガラスで構成された壁面となっている。ホームの壁面は中之島の「未来」をイメージした金属材を使用している。地下1階には飲食店が中心のエキナカ地下街である「MINAMO(ミナモ)」がある。かつてここにはアンスリーとサブウェイのコラボレーション店舗が存在していた。大江橋駅に設置されているものと同様の形態だったが、両駅のサブウェイは開業から半年足らずで閉店してしまい、現在はアンスリーのみが残る。大阪市営地下鉄四つ橋線の肥後橋駅(4号出口)と地下通路「中之島地下街」を通して接続されており、中之島線の駅では唯一他の鉄道駅と地下道のみを介しての乗り換えができる。2009年2月19日終電から、新朝日ビルディングの解体に伴い、肥後橋駅との連絡通路が閉鎖されていたが、中之島フェスティバルタワー東棟竣工直前の2012年11月1日、3年8ヶ月ぶりに再び通行可能となった。
【イヌクシュク記念碑】中之島線全駅でわが国の地下駅では初めて不燃処理をしたカナダ産の杉を採用したことを記念して、関西カナダビジネスアソシエーションから彫刻家ビル・ナソガルアク氏制作のカナダ・イヌクシュクのオブジェの寄贈を受け、当駅コンコースに設置しています。「イヌクシュク」は、イヌイット文化のシンボルとして扱われ、カナダのヌナブト準州を示す旗や紋章、ヌナツィアブトの旗にも描かれている。交通の要所における標識として使われた可能性があり、旅のルート、釣り場、駐留地、狩猟場、聖地、ドリフト・フェンス、食糧貯蔵地などを示したと考えられる。
◆渡辺橋・肥後橋
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000030561.html
渡辺橋・肥後橋は江戸期、明治期を通じて大名蔵屋敷や米市場とともに中之島や堂島地区の繁栄を支えてきた。渡辺橋の名前の由来は、現在の天満・天神橋付近の上町台地北端部あたりの渡辺の津と呼ばれていた地名のようである。肥後橋は、橋の北詰の中之島に★肥後・熊本藩の蔵屋敷があり、明暦3年(1657)の「新板大坂之図」には、肥後殿橋と書かれており、古くはこう呼ばれたこともあったらしい。明治18年の大洪水によってこれまでの木橋が流され、明治21年に両橋ともイギリスから輸入した鉄橋に架け替えられた。その後、渡辺橋・肥後橋は市電の第2期線建設(明治41年)にともなって架け替えられ、明治以降4代目の橋は第一次都市計画事業(昭和初期)によって架けられた優美なアーチ橋であった。現在の橋は昭和41年に高潮対策事業と地下鉄建設に合わせて架け替えられた。この碑の隣にある親柱は、昭和41年に架け替えられた時のものである。
◆堂島公園/大阪市中央区堂島浜1-3
堂島川沿いにある、舗装された遊歩道のような公園。堂島米市場跡碑があります。
【堂島米市場跡記念碑(先物取引発祥の地)】
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000009888.html
江戸時代米の取引きは、当初蔵屋敷の連なる土佐堀川沿岸の、北浜の路上で行われていた。これを開いたのが豪商淀屋の2代目个庵といわれ、そのため「淀屋の米市」と称されていた。その後、交通妨害になることや、当時開発されたばかりの堂島新地の振興もあって、当地に移された(元禄10年、1697)。この移転は、淀屋の幕府によるとりつぶしの関係も考えられるが、いずれにしても公認のものではなく、米商人の自主的取引きであった。その後江戸商人による公認の市場開設などあったが、享保15年(1730)公認の帳合米市場が発足し、その取引の手法は、現在の大阪証券取引所を始めとする世界各地における組織化された商品・証券・金融先物取引の先駆をなるものであり、「先物取引発祥の地」とされている。背後の像は、昭和28年彫刻家・横江嘉純氏により製作され、昭和30年堂島米市場跡建碑会により寄贈されたものである。
【横江嘉純】(1887~1962)
明治20年5月3日富山県婦負郡に生まれ、明治39年3月京都美術工芸学校を卒業後、さらに東京美術学校彫刻科の専科に入学、大正3年3月同校を卒業した。大正7年文展初入選ののち同15年に特選、昭和2年帝展に発表した「大乗」で帝国美術院賞をうけた。昭和4年帝展審査員をつとめており、文展、日展でも審査員を歴任し、終始官展系作家として重きをなした。昭和5年12月より1年3ケ月、同11年2月より半年、研究のため渡欧し欧州各地の彫刻を見学した。戦後は日展に参加し、昭和26年文部大臣賞を受賞するなど、日展参事、新日展評議員として斯界の重鎮であった。主要作には「大乗」「望洋」「母と子」等があるが、象徴寓意的な特色ある作風を示した。昭和30年11月、東京駅中央口前広場に建立された「愛の像」(アガペの像)の制作者としても著名である。
【参考】八尾町美術保存展示館
939-2376富山県富山市八尾町福島183/076-455-9520
http://www.toyamaguide.net/spot/310/
八尾町美術保存展示館は八尾町に伝わる様々な芸術作品の保存や展示をする施設。八尾町出身の彫刻家・横江嘉純氏の大正15年から昭和36年の作品が展示されている。
※中村勝五郎/平成16年千葉県市川市名誉市民
http://www.city.ichikawa.lg.jp/pla03/1111000006.html
大正2年生まれ。元味噌醸造所代表。戦後の混乱期に父勝五郎(2代目)とともに、私財をなげうって、若手芸術家の育成や美術界の興隆に力を尽くされた。また、BC級戦犯処刑者の支援にあたり、「世紀の遺書」の出版を資金援助するとともに、東京駅前広場に世界平和を祈願する「愛の像」(アガペの像)の建立に奔走された。さらに、財団法人市川市高齢者事業団を設立し、初代理事長として、市川市の社会福祉の向上に貢献された。「愛の像」(アガペの像)は、富山県出身の彫刻家横江嘉純の制作によるもので、「BC級戦犯」の慰霊と平和祈念のために、1955年に建立されたという。B、C級戦犯の遺書を一冊の本にした「世紀の遺書」という本があり、その売上げが昭和28年の段階で200万あり、その売り上げでこの像をつくったそうです。
◆中之島ガーデンブリッジ
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000026036.html
堂島川の大江橋と渡辺橋の間に架けられている。歩行者専用の橋で、全日空ホテルの前に階段があり、その横に堂島米市場跡記念碑がある。この橋は新しく、構造も橋脚が端に寄せられ、片持ち梁の橋桁でクサビのような形状としている。橋の上の幅員は広めになっており、くつろげる空間が確保されている。橋の中央に松岡阜の彫刻「そよかぜ」がある。
【松岡阜】(1923~2008)
東京美術学校彫刻科を卒業。平櫛田中に師事し、写実的な作風を受け継いだ。1955年、行動美術協会に入会。1956年、行動美術賞を受賞した。代表作は阪神甲子園球場の正面入口に建つベーブ・ルース記念碑のレリーフ(1949年制作)。2005年、ルースの生誕地であるアメリカ合衆国メリーランド州ボルティモアに「スポーツ記念館」が開館し、ルースの生家が移設された際、阪神球団は松岡が保管していたオリジナルからレプリカを作成し寄贈した。なお、同レプリカは記念館に展示されている。
★「フェスティバルホール」外壁レリーフ
朝日新聞社から「行動美術協会」の彫刻部に依頼があり、それを受けて彫刻部の創立会員である中島快彦さんが考案し、建畠覚造さんが設計。「行動美術協会」彫刻部メンバーが信楽に泊まり込み、完成まで約3カ月くらいかかったそうです。その中に、松岡阜さんもおられたわけです。
※中之島フェスティバルタワー
「牧神」復活/大阪・中之島フェスティバルタワー
大阪・中之島で建設が進む中之島フェスティバルタワーの南側外壁に、旧フェスティバルホールのシンボルだった「牧神」のレリーフが再びお目見えした。彫刻家の故建畠覚造さんがデザインした「牧神、音楽を楽しむの図」。太陽と月、星のもと、ギリシャ神話に登場する音楽好きの牧神(パン)が竪琴や笛を奏でる様子を表現した作品で、1958(昭和33)年に開館した旧フェスティバルホールの外壁に掲げられた。半世紀を経て劣化が進み、建て替えにあたって再制作し、設置された。建畠さんの長男で彫刻家の朔弥さん(67)と彫刻家の鷹尾俊一さん(62)の監修のもと、神戸市内に保存されているオリジナルの模型から、「大塚オーミ陶業」(大阪市中央区)の滋賀・信楽工場で約350のパーツにわけ、粘土を成形して焼き上げた。鳥を手に載せた牧神は縦約6.3メートル、横約5.7メートルと、旧ホールのものより一回り大きめとなった。中之島フェスティバルタワーは地上39階、高さ約200メートルで今年10月末に完成する予定。ホールは2~7階に2013年4月にオープンする。(2012.3.19朝日新聞)
◆錦橋
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000023833.html
錦橋は朝日フェスティバルホールの南側にある土佐堀川可動堰を指す名称で、昭和60年5月、橋面の美装化整備が行われた際に新しく名付けられた。この可動堰は橋長約55mで、中央の2径間は支間約15mの鉄筋コンクリートのアーチを主構とし、両側には階段と一体構造になったコンクリートアーチが用いられている。建設当時から歩行者専用橋として利用されてきた。橋面の整備にあわせて、大阪のシンボルにもなっている橋をより深く知ってもらえるよう橋上を橋のギャラリーにすることにした。植樹枡の壁面を斜めにした展示スペースには、江戸末期から明治初期に画かれた大阪の橋をテーマにした錦絵をタイルに焼きつけたものを展示している。
・・・何も知らなかったら、何も見えてこない。あらためて「大阪」そして「中之島」の姿が見えてきたように思います。