◆日本庭園
みやのまえ文化の郷で四季折々の表情を見せ、訪れる人々の心を和ませるのは、日本を代表する作庭家、重森完途氏によって考案された日本庭園です。旧岡田家住宅の一般公開と旧石橋家住宅の移築に伴い、完途氏の跡を継ぐ重森千靑氏によって一部改修され、文化ゾーン内の各施設をつなぎながら、行き交う人々の目を楽しませてくれています。
●庭園設計者、重森完途氏のことば
この地は、古来より水の美味なるところで、江戸初期頃より「伊丹酒」と称し、最上酒とされ珍重された。このようなところから庭園中央部を流れる白砂は、水の象徴たる意匠、即ち、井泉や湧水、そして清涼をあらわし、加えて蓬莱意匠の三尊石組を右端の松樹の付近に意匠した。更にこの地は元禄頃より「伊丹風」と云われる俳諧の一風・一派が創案された。伊丹の人であった池田宗旦が中心となり、口語を自由に用いた新しい着想の俳諧である。宗旦の後輩にあたる上島鬼貫が、その配下の中堅で著名である。これは新しい着想の俳諧であるから、庭園も新しさを求め、在来の植栽の多い庭園から離れて、それを尠くし、明るさと理解し易い庭になるように努めた。緑も現代風に多彩にするため、地被類も、高麗芝、龍の鬚、杉苔の三種とし、「市の花」たるサツキを野筋(築山より低い山や丘)紋様の刈込みとし、四種類の緑が展開するようにした。しかし、単に新しさだけを求めたのではなく、「くの字」形の石橋配置と低い架け方、飛び石の打ち方を、俳諧の侘びの形態の打ち方にして、古典の美しさの基本を求めて、廻遊と観賞の庭園意匠の初心を忠實に表現した。御来館の諸彦の愛好を願う者である。
●庭園改修責任者、重森千靑氏のことば
この庭園は、伝統的な技法を活かしながらも、現代の創造性を持って作庭された庭園である。転園の作者である重森完途は上記のような一文を残している。このように、日本庭園の伝統と新たな創造を加味した、従来の日本庭園にはなかった庭園であったが、先の阪神淡路大震災によって一時荒廃していた。しかしながら、この程伊丹市教育委員会、伊丹市造園共同組合のご尽力により、ここに改めて修復手直しされたのがこの庭園である。周辺整備に伴う石組、サツキ、地被類に関しての若干の変更があるが、地割り、中心的な石組など、この庭園の最も重要なところは竣工当初のままである。新たな文化財古建築などの移築により、美術館を中心とした一大文化ゾーンがこの地に誕生したわけである。奇しくも庭園を中心とした配置になったわけであるが、どれが中心としうことはなく、すべての建物と空間がここに和合、結実したのである。この庭園が、文化ゾーンの一つとして、末永くこの地で愛されることを願う。
★重森三玲(1896~1975)
旧戸籍名は重森計夫、岡山県上房郡賀陽町吉川(現・加賀郡吉備中央町吉川)の生まれ。当地には豪渓と呼ばれる水墨山水画の世界を思わせる渓谷地帯がある。日本美術学校で日本画を学び、いけばなと茶道を習い稽古に励む。日本美術学校卒業後には東洋大学文学部に学ぶ。大正6年(1917年)に画家の道を志し上京するが、全国から集まる才能に意気消沈する。昭和4年(1929年)京都へ移り住むと、翌年には勅使河原蒼風らと「新興いけばな宣言」を起草(当時は未発表)、いけばなの革新を世に提唱した。その後は日本庭園を独学で学ぶ。昭和11年(1936年)より全国の庭園を実測調査し、全国500箇所にさまざまな時代の名庭実測、古庭園の調査などにより、研究家として日本庭園史のさきがけとなっていく。昭和14年(1939年)、『日本庭園史図鑑』26巻を上梓して庭園史研究の基礎を築き、また昭和51年(1976年)には息子の★重森完途と共に『日本庭園史大系』全33巻(別巻2巻)を完成させるなど庭園史研究家としても多大な功績を残した。昭和24年(1949年)には前衛いけばなの創作研究グループ「白東社」を主宰、後に前衛いけばな誌「いけばな藝術」を創刊した。三玲が作庭した庭は、力強い石組みとモダンな苔の地割りで構成される枯山水庭園が特徴的であるとされ、代表作に、東福寺方丈庭園、光明院庭園、瑞峯院庭園、松尾大社庭園などがある。
★重森完途(1923年~1992年)
作庭家、造園家、造園史家。庭園研究家で京都林泉協会会長等を歴任。重森三玲の長男。名前はイマヌエル・カントに由来する。1923年、東京生まれ。1943年に早稲田大学文学部国文科を卒業後兵役を経て1945年に重森三玲研究所で庭園の研究を開始するが、1955年には重森完途庭園設計研究所を設立し、設計活動を開始する。1966年、外務省文化使節としてオセアニアに派遣される。
★重森千靑(1958~) http://www.ifnet.or.jp/~chisao/index.html
1958年、東京生まれ。中央大学文学部文学科卒業。現在、有限会社重森庭園設計研究室代表取締役、日本庭園についての著述、講演、講師活動並びに日本全国にて庭園の設計に携わっています。2001年4月から、京都工芸繊維大学工芸学部造形工学科において、「庭園美学論」の非常勤講師として赴任いたしました。日本庭園の意匠の変遷、見学会(非公開寺院なども含む)、実測実習など、学生達と(院生を含めて)やっております。1991年にロンドンを中心にして開かれたジャパンフェスティバルの一環事業として”ロンドン京都庭園”の作庭派遣団にの一員として、ロンドン市内のホーランドパークにて日本庭園の作庭に従事しました。私どもの研究室は、私の祖父である三玲(みれい)、父の完途(かんと)、そして私・千青(ちさを)と三代にわたって日本庭園の設計と庭園史の研究をしております。ただし仕事の性格上、継ごうと思って継げるようなものではなく、父も私も二代目、三代目といいますが、実質は独立しておこなっているようなものです。三玲は日本全国に200庭以上、完途は100庭、私が計画案なども含めて40庭ほどの作庭をおこなっております。また著作に関しては、三玲の代表的な著書である「日本庭園史図鑑全26巻(有光社、重森三玲著)」、三玲と完途の共著である「日本庭園史大系全36巻(社会思想社、重森三玲・完途共著)」など、通史としての総合的な日本庭園史の本をはじめ、庭園、茶の湯等に関しての著書を多数執筆しております。私も近年執筆が増えてまいりました。日本庭園史の世界で、内外の日本庭園研究者の注目を集めております。これは戦前の昭和10年頃から、災害、無関心等による崩壊など、非常に貴重な歴史的遺産が消滅してしまうことを憂い、祖父が日本全国の庭園実測調査を始めたことがきっかけであります。そして実測調査をして図面に残すことによって、万が一災害等で崩壊してしまっても即座に復旧することが可能となったわけであります。その全庭の図面を書き起こしたことも日本では初めてのことであります。作品としては、祖父の代から現在までの代表的なところでは、東福寺本坊、東福寺光明院、大徳寺瑞峯院、石清水八幡宮庭園、伊丹市立美術館庭園、島根県庁庭園、松尾大社庭園、重森三玲記念館庭園、長保寺庭園など、全国で約400庭以上の寺社、公共施設、住宅庭園の作庭と、古い庭の復元工事などもこなしております。
◆みやのまえ文化の郷
http://hccweb1.bai.ne.jp/itamihall/zaidan/gotyou.html
酒造りの歴史漂う跡地に建つ文化ゾーンの愛称です。枯山水の日本庭園を取り囲むように、美術館と公益財団法人柿衞文庫(有料エリア)、そして伊丹市立工芸センターと伊丹市立伊丹郷町館(国指定重要文化財旧岡田家住宅、県指定文化財旧石橋家住宅、新町家)(無料エリア)があり、展示事業や講座、イベントなどを随時行っています。
●旧石橋家住宅
江戸時代後期に建てられた商家。母屋の正面には摺り上げ大戸の出入り口装置やばったり床几(しょうぎ)、揚見世など、二階には塗り込めの軒裏や虫籠(むしこ)窓、出格子窓など、建設当初の店構えを残していることから、平成13年に県指定文化財になりました。
石橋家は、18世紀に北少路村・猪名野神社の門前通りで商売を始め、明治以降、紙と金物などの小売業のかたわらに酒造業を始め、その後、日用品の雑貨商を営んでいました。
●旧岡田家住宅(店舗・酒蔵)
江戸時代の延宝2年(1674)に建てられた町屋で、建立当初から酒造業を営んでいました。岡田家の所有となったのは明治33年。店舗は、兵庫県内に現存する最古の町屋で、年代が確実な17世紀の町屋としては全国的にも貴重です。酒蔵は、年代が判明し現存するものでは日本最古の遺構で、江戸時代に隆盛を極めた伊丹の酒造業の歴史を今に伝える重要な文化財です。平成4年1月21日に国の重要文化財に指定されました。内部では伊丹の酒造業の歴史の展示を行っています。
・・・これだけのミュージアム施設が一箇所に凝縮しており、雨風・季節を気にせず見学でき、しかも美術館以外は無料なのです。ぜひ一度は行ってみてください。これからも、魅力的な展覧会が多く企画されていますよ。