・・・今になって、「旧そごう」心斎橋本店(現:大丸心斎橋店・北館)へよく行くようになりました。理由は、「失われた都市の記憶を求めて」なんてカッコよく表現しておきましょうか。とにかく、屋上庭園にある彫刻「飛躍」藤川勇造さんの作品が、気になって仕方がないのです。
★笹倉鉄平「ちいさな絵画館」
662-0838兵庫県西宮市能登町11-17/0798-75-2401
は画家「笹倉鉄平」の原画を中心とした作品を年間を通して見られる兵庫県西宮市(西宮北口)にある個人美術館です。
★MIDDOUSUJI BOULEVARD GUIDE
建設省近畿地方建設局大阪国道工事事務所によって平成7年8月に設置されました。ここには、「SOGO」が健在です。
・・・さて屋上庭園は、たしか午後6時半までのはずですから、「笹倉鉄平」さんの作品は西宮の美術館に直接行くことにして、とにかく、今日は屋上へと急ぎます。屋上への出入口では、すでに警備員さんがスタンバイされていました。用件を告げ、あわてて屋上への階段を駆け上がり、「飛躍」の像を見て引き返すことにしました。
【案内プレート】1935年9月竣工の旧そごう本店、御堂筋側外壁に設置されていた藤川勇造制作のブロンズ彫刻を、新装なった大丸心斎橋店に保存移設したものです。村野藤吾設計の旧そごうはトラバーチンルーバーの外壁をもち、飛躍の像はその外壁のアクセントになっていました。銘板のある台座や庇のイメージをできるかぎり忠実に復元しています。
・・・自宅にもどって、おさめてきた数枚の画像をながめながら、いろいろ調べていますと、まだまだ知らないこと・新しい発見があったりして、さらに深みにはまってしまいました。
【藤川勇造】(1883~1935)
明治16年、高松藩主松平家のお抱え漆塗師で讃岐独自の漆工芸を生み出した玉楮象谷を大伯父に持つ家系に生まれ育っています。最初は家業の漆工の道に進むつもりか、香川県工芸学校(現・香川県立高松工芸高等学校)の漆工科に入学しています。翌年に木材彫刻科に転科し、卒業後は東京美術学校彫刻科へ進学することで、彫刻の道を歩むことになります。美術学校時代の藤川ですが、当時すでに雑誌や書籍によりロダンについて知る機会があったにもかかわらず、格段の関心を寄せることはなかったようです。卒業制作作品は技巧が注目されたとあります。また、1908(明治41)年に美術学校を卒業し、農商務省海外実業練習生として渡仏しますが、派遣当初は、留学体験を生かして漆工を盛り立てたいと述べています。多くの練習生がそうであったように産業面での貢献が主目的で、当時のヨーロッパの彫刻界の最新の動向を積極的に摂取しようという意図があったわけではないようです。アカデミー・ジュリアンでデッサンを学び、ルーブル美術館での彫刻研究や農商務省の調査の仕事などで見聞を広めるに従って、芸術面でも目覚めていったのでしょう。藤川がロダンと初めて出会うのは、1911(明治44)年のことです。日本にロダンを本格的に紹介した荻原守衛の遺作集の制作に協力したアメリカの美術史家ウォルター・パッチの調査を手伝ったことから、パッチに連れられてロダンを訪ねたといいます。これを縁にその後も藤川はロダンを訪ね、さらに1912(明治45)年から14(大正3)年にかけてロダンの工房に通っています。パリでは生涯の友となる安井曽太郎らと親交を結び、「スザンヌ」など初期の代表作を制作します。帰国後、大正8年に二科会に迎えられ新たに彫刻部を創設。日本の風土に根付いた彫刻の近代化を理想に掲げ、穏やかでじっくりと造形された裸婦像など独自の表現を発展させます。二科会に作品を発表する一方で1929(昭和4)年に開設された二科技塾(後に番衆技塾と改称)で指導にあたり、そこからは菊池一雄や堀内正和などの具象、抽象の優れた彫刻家が生まれています。しかし、彫刻家として充実した制作を続けていた矢先の昭和10年、美術界を揺るがす帝展改組の混乱の中で急死し、51歳の若さでその生涯を閉じます。日本の近代彫刻に大きな影響を与え、その作風は静謐な中にも力強さが感じられる自然主義的なものです。彫刻「飛躍」は、「旧そごう」心斎橋本店の御堂筋側外壁に飾られていました。そごう心斎橋本店は藤川さんが死去した1935年に竣工しました。村野藤吾さん設計のアールデコ様式建築は、ヴォーリズ設計の重厚な大丸と好対照で、心斎橋の名物でもありました。2003年の解体の際には反対運動も起きたほどです。2005年、取り壊した跡に新しいそごう心斎橋本店が建ち、「飛躍」も屋上に移設されましたが、そのわずか4年後にそごうは約380億円でこの店を「大丸」に売却することになったのです。
・・・・藤川さんの作品を多く収蔵されている「香川県立ミュージアム」のデータを調べてみましたが、「飛躍」に似通った作品は見当たりませんでした。かろうじて、男性の頭像そして鳥の作品が近い雰囲気かなあと思います。当館には、「飛躍」(複製・樹脂)1989/150×160×250も資料として所蔵されているそうです。
【参考】香川県立ミュージアム
760-0030香川県高松市玉藻町5-5/087-822-0247
http://www.pref.kagawa.jp/kanzouhinkensaku/index.php/bijyutsu/blist/280
・・・さらに、大伯父「玉楮象谷」さんについても調べてみました。
【玉楮象谷】(1806~1869)
本名は、「藤川為造」。幼少より鞘絵師である父藤川理右衛門の教えで塗り、彫刻の技術などを修得。天保10年(1839)34歳の時に藩主頼恕公に虫や花、鳥などを1086種の動植物を彫刻した「一角印籠」を献上、一躍有名になる。各地の漆芸や、中国、東南アジアから輸入された「堆朱」「堆黒」「蒟醤」「存清」などの技法の研究を重ね、自らの漆技法に加え、讃岐漆芸発展の礎を築いた。
◆高松市立中央公園/香川県高松市番町 1丁目11
http://www.city.takamatsu.kagawa.jp/3244.html
敷地は戦前まで、1588年に高松城築城と同時に宇多津から移転してきた浄願寺の敷地であった。1945年7月4日の高松空襲で寺院は全焼したため、跡地は1946年に戦災復興土地区画整理事業により都市公園用地として確保されたが、実際には野球場建設地になり、1947年5月1日に高松市立中央球場が開場した。1968年9月1日には地下部分に高松市立中央駐車場の供用が開始される。1982年、高松市西部に新野球場(香川県営野球場)が整備されたのに伴い、4月17日に地上部分の高松市立中央球場は閉場、後に撤去された。敷地は本来の用途である都市公園として整備され、1985年6月に高松市立中央公園が完成。高松市にゆかりの深い彫刻家イサム・ノグチ氏の考案した遊具を3基設置しました。(平成22年6月)
【参考】香川県漆芸研究所
760-0017香川県高松市番町1丁目10番39号/087-831-1814
http://www.pref.kagawa.lg.jp/sitsugei/index.html
香川漆芸は玉楮象谷によって確立しました。彫刻刀や剣による彫りの技術と色漆の使用が香川漆芸の特徴であり、蒟醤(きんま)、存清(ぞんせい)、彫漆(ちょうしつ)の技法を「香川の3技法」といいます。
【参考】香川県立高松工芸高等学校「所蔵作品ギャラリー」
http://www.kagawa-edu.jp/kogeih01/
「鷹」藤川勇造/昭和43年ブロンズ
・・・さらに「トラバーチンルーバー」のことが気になり調べてみました。
★トラバーチン
温泉、鉱泉、あるいは地下水中より生じた石灰質化学沈殿岩で、緻密、多孔質、縞状など、多様な構造をもつ。温泉沈殿物や鍾乳洞内の鍾乳石類、あるいは石灰分の多い河川沈殿物など。とくに多孔質で、軟弱なものをトゥファ(tufa)と呼ぶ。これらの総称として石灰華(calcareous sinter)が用いられる。緻密で、研磨して美しい光沢や色合い、模様を有するものを、装飾石材名としてオニックス マーブル(onyx marble)とかケイブ オニックス(cave onyx)という
建築材料としてよく利用されている。古代ローマ人は古く乾いて硬くなったトラバーチンを大量に採掘した。ローマのコロッセオは、その大部分がトラバーチンでできた世界最大の建築物である。トラバーチンを多く使った有名な建築物としては他にパリのサクレ・クール寺院やロサンゼルスのゲティセンターなどがある。ゲティセンターの建設に使われたトラバーチンは、ティヴォリやグイドーニアから輸入したものである。トラバーチンは中庭や庭園の小道の舗装にも使われる。石灰岩や大理石とは異なるが、そのような名称(travertine limestone あるいは travertine marble)で販売されていることもある。表面に孔や溝があることでトラバーチンだと判る。トラバーチンには形成の際に自然にそのような溝ができるが、風化作用で溝や孔ができたようにも見える。グラウトでそういった孔を埋めて販売する場合もある。表面を磨けば非常に滑らかで輝くように仕上げることもでき、色も灰色からコーラルレッドまで様々なものがある。床材用サイズのタイルの形状での利用が最も一般的である。トラバーチンは近代建築で最も頻繁に使われた石材の1つであり、一般に、正面装飾、壁や床に張る石材として使われてきた。シカゴのウィリス・タワーのロビーの壁はトラバーチンである。建築家ウェルトン・ベケットはトラバーチンをよく使っており、手がけた建築物のほとんどでトラバーチンを大量に使っている。例えばベケットが設計した UCLA Medical Center の1階の壁全体が分厚いトラバーチンで覆われている。建築家ミース・ファン・デル・ローエは、S.R. Crown Hall と Farnsworth house という2つの作品でトラバーチンを使った。石材としては柔らかい方で孔や溝があるため、トラバーチンを床材として使うと、仕上げとその後のメンテナンスが難しい。例えばメンテナンスのために表面を削って磨くと、新たな孔が見えるようになったりして、見た目が大きく変わってしまうことがある。アメリカでは建材としてのトラバーチンを国内で製造する業者は3社しかない。アメリカでのトラバーチンの年間需要は85万トンで、そのほとんどを輸入している。主な輸入元はトルコ、メキシコ、イタリア、ペルーである。10年ほど前まで、世界のトラバーチン市場のほとんどをイタリアが独占していた。
★ルーバー(Louver)
羽板(はいた)と呼ばれる細長い板を、枠組みに隙間をあけて平行に組んだもの。 羽板の取付角度によって、風・雨・光・埃・視界などを、選択的に遮断したり透過したりすることができるため、建築物をはじめとしてさまざまな箇所で用いられる。羽板の方向は使用箇所により縦のものも横のものもある。ルーバーの断面を見ると、カタカナのミの字状になっており、正面からでは向こう側が見えないが、視点をずらすことにより向こう側が見えるようになる。また、風の通る量を変えるため、羽板の角度が調節できるものもある。壁や天井の開口部に取り付けられる建具の場合、ルーバーが枠ごと開閉できるものは「鎧戸」、はめ殺しになっているものは「ガラリ」と呼ばれる。また、建築物と一体化されたものは、「ブリーズ・ソレイユ」と呼ばれることもある。内燃機関において、低温時や軽負荷高速運転時のオーバークールを防ぐ目的で放熱器に取り付けられるものは、ラジエーターシャッターと呼ばれる。気象測定用の百葉箱のケース(筐体)には、外気が入るようにルーバー(ガラリ)が使われている。
・・・さてさて、そもそも「飛躍」の人物は何者なのか?私の想像では、「三越」の玄関を飾り、「天満橋OMMビル」前に君臨し、はたまた「中之島中央公会堂」の屋根上で語り合っている、「メルクリウス」ではないかと考えている。またの名を「マーキュリー」「メルキュール」はたまた「ヘルメス」とも呼ばれている。さらに、研究調査はつづくのです。