教会(9) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・「カフェ」つながりで「豊中市」まで行ってしまいましたが、再び地元に戻ってきました。以前、「南海平野線」の追っかけで「苗代田駅」について掲載しましたが、その近くにある「教会」を紹介します。


なわ1


◆日本基督教団「南大阪教会」

545-0021大阪市阿倍野区阪南町1-30-506-6622-2011

http://www.h5.dion.ne.jp/~mochurch/


なわ2


南大阪教会は1926年に設立され、2年後に現在地に建物を建築しました。その3年後には地域の子どもたちの教育のために南大阪幼稚園を設立しました。幼稚園は第二次世界大戦中から戦後の一時期をのぞいて休むことなく、現在まで地域の幼児教育の一翼を担ってきました。教会も設立以後、周辺地域からたくさんの人たちが集まってくるようになり、設立後6年には100名以上の信仰者を生みだすようになりました。第二次世界大戦中は、他のキリスト教会同様に人々が集まるのに困難な経験を致しました。この時の経験から、教会は平和を願う思いを強くもつようになりました。戦後は、民主主義に基づいて自由になった社会のなかで、心からの自由を宣べ伝える教会にさらにたくさんの人たちが集まるようになりました。また教会員が社会的国際的な奉仕活動に積極的にかかわり、参加するようになりました。1970年には現在「別館」とよばれている幼稚園園舎・教育館・伝道師住居を建築しました。1981年には、新しい会堂を建てました。戦前の会堂は老朽化すると同時の収容能力が限界に達したため、新しい建物が必要とされたからです。この時、塔(写真)は修復して残されました。この塔は現在でも大阪の貴重な近代建築の一つとして雑誌などに紹介されています。1996年に創立70周年を迎え、それを記念して1999年に、『南大阪教会70年誌』を出版し、2001年にはその姉妹版として『南大阪教会に生きた人びと』を出版しました。21世紀に入り、さらに多様化する社会のなかでさまざまの人々をお迎えできる教会として成長し、いくぶんかでも人間性豊かな地域社会づくりに貢献できるようにと願っているところです。


なわ3


村野藤吾

明治24年(1891)、佐賀県唐津市に生まれた村野藤吾は、大正7年(1918)に早稲田大学建築学科を卒業後、大阪の渡辺節建築事務所に入所し、大阪に活動の拠点を置きました。昭和3年(1928)大阪基督教会創立50周年記念事業のひとつとして、南大阪教会の塔屋(教会塔)建築されることになりました。設計・監督は、当時まだ渡辺節建築事務所に在籍していた村野藤吾で、これが彼のデビュー作となりました。旧礼拝堂(会堂)と塔屋(教会塔)は無事に戦火をくぐり抜けましたが、時間の経過とともに傷みが激しくなり、旧礼拝堂(会堂)を取り壊すことになった。その際、村野は「私の長男」と呼んで強い愛着を示したというエピソードが残っています。そして昭和56年(1981)に新礼拝堂(会堂)が建築されましたが、こちらも当時90歳の村野の手によるもので、彼の宗教建築最後の作品となりました。この南大阪教会は、村野藤吾の処女作である塔屋(教会塔)と最晩年の作品である新礼拝堂(改修)とが一望できる貴重な教会です。


なわ5


【参考】大阪歴史博物館

540-0008大阪市中央区大手前4丁目1-3206-6946-5728

●特別展「村野藤吾やわらかな建築とインテリア」

平成26年9月3日(水)から10月13日(月・祝)6階特別展示室

村野藤吾(1891-1984)は、大阪を拠点に活躍した日本を代表する建築家です。今年は、村野藤吾の没後30年にあたることから、建築関係資料やインテリアを通して、その業績を回顧する展覧会を開催しました。村野は、建築家・渡辺節のもとで綿業会館などの設計を担当し、昭和4年(1929)の独立後は旧そごう大阪店(現存せず)、梅田吸気塔など、大阪の都市景観に欠かすことができない建築を設計しました。また、迎賓館(旧赤坂離宮改修、国宝)や宇部市渡辺翁記念会館など重要文化財3件、尼崎市立大庄公民館(旧大庄村役場)など登録有形文化財2件を含む、全国各地に300を超える数の作品を残しました。村野は、時代の潮流であったモダニズムから一定の距離をおき、ひとの感性や手仕事を重視して建築を設計しました。こうした彼の姿勢は、建築という無機質で堅牢な印象になりがちな存在を、五感にやさしく訴えかける「やわらかな」ものへと変えていきました。本展では、設計図やスケッチはもちろん、家具や建築部材、村野自身の愛用品などを通して、彼の「やわらかな」作品の魅力と人物像を紹介しました