教会(8) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・「川口基督教会」を出て周辺を散策していると、「本田小学校」のフェンスに何やら案内標示板がありました。


◆カッフェー・キサラギ跡

大阪の文明開化は、海外の貿易商などの居住地として開放された川口の居留地から始まりました。現在は大きく姿を変えていますが、川口教会の建築に往時の姿を窺うことができます。この川口教会のそばに、明治45年(43年とか44年という説もある)、大阪で最初に(わが国では東京のカフェ・プランタンに次ぐ2番目)、カフェの名を冠してカフェ・キサラギはオープンしました。2階建ての洋風建築で、板敷きの部屋の中央にストーブがあり、その周囲にテーブルとイスが並んでいたといいます。外観、内装は当時よく見かけた洋食店とあまり変わらないものだったようですが、まだ見ぬ巴里や伯林のカフェにあこがれた芸術家や文化人(の卵たち)は、このカフェに集まりました。「プライム会」という月1回の例会も開催され、食満南北(歌舞伎作者)、鍋井克之(洋画家)、小出楢重(同)、百田宗治(詩人)などなど、多くの人たちが集まり熱く議論をかわしたそうです。会の終了後は、ガス燈のほの暗いあかりのなかアカシアの並木道を歩き、古風な西洋建築や遠くから聞こえてくる外航船の汽笛など、エキゾチックな感傷にひたったものだといいます。


なか1


橋爪紳也モダン都市の誕生』(吉川弘文館)2003年6月

従来、日本で最初に「カフェー」と名乗った店は、明治44年(1911月に開業した銀座の「カフェープランタン」であるとされてきた。しかしその年ほど前、大阪の川口に「カフェーキサラギ」が開店していたことが知られている。おおよそ東西二都にあって、同時期にカフェーという業態が誕生したとみたほうが正確であろう。

『寺田寅彦日記』、『月刊食道楽』の第三巻第七号(明治40年6月1日発行)などに、遅くとも明治30年代から一高の前に「本郷カフエ(カツフエ)」が存在した。その支店「早稲田カツフエ」もあったらしい。ただし内実は学生向けの洋食店だった。

【参考】メニューにお酒があるのが「カフェ」、お酒がないのが「喫茶店」。また、喫茶店は昔にはわずかながらお酒を出す喫茶店もあり、それに対して純粋にお茶だけを楽しむ、お酒がない喫茶店を「純喫茶」と呼んでいたうです。さらに、大阪で最初のカフェは箕面市カフェ・ウリスタ」だという情報もあります。

http://www.paulista.co.jp/introduce/history.html

・・・とにかく「豊中市」に行ってみましょう。


なか2


★「旧カフエーパウリスタ箕面店として使われた洋館がいつ豊中駅前に移築されたか、その記録はまだ見つかっていない。その後、豊中クラブ自治会館として使用され、100年以上の歴史をもつが、平成25(2013)年10月、一部の部材をのこしてすべて解体された。現在、新しく竣工された「豊中クラブ自治会館には案内板がたち、旧階段の手すりが展示されている。

・・・「カフェ」については、また別の機会に特集したいと思います。今回は、とにかく「教会」へ。



なか3


◆カトリック豊中教会

560-0021豊中市本町6丁目1-606-6852-4110

http://www4.ocn.ne.jp/~toyonaka/index.html

文化審議会(会長宮田亮平)は,平成26年3月18日(火)開催の同審議会文化財分科会の審議・議決を経て新たに154件の建造物を登録するよう文部科学大臣に答申を行いました。

http://www.bunka.go.jp/bunkazai/shoukai/yukei_kenzoubutu.html


なか4


カトリック豊中教会聖堂及びヨゼフ館ほか大阪府豊中市

1939年(昭和14に建てられた教会建築で聖堂の端部に玄関のある鐘塔を建てヨゼフ館を併設する。屋根を入母屋造として鐘塔に高欄をめぐらし内部では丸太柱を立てて格天井を張りさらに祭壇上の天井を折上格天井とするなど寺社建築の意匠を積極的に取り入れた木造和風教会の好例である。司祭館をあわせて登録する。

設計はチェコスロバキア人建築技師のヤン・ヨセフ・スワガーで、スワガーの日本での最後の作品。施工は、関工務店です。


なか5


J.J.スワガー(Jan Josef Svagr)1885~1969

1923年に来日したチェコ出身の建築家です。彼は、同じチェコ出身の建築家であるアントニン・レーモンドが設立した会社「米国建築合資会社」の所員となり、通算6年間にわたって、シーベルヘグナー商会倉庫、横浜スタンダード石油ビル、ライジングサン石油ビル、ライジングサン石油社宅など、横浜の主要なレーモンド作品の構造や現場監理の業務に携わり、同事務所の横浜支所を統轄します。やがて事務所から独立した彼は、横浜市中区山手町46番に建築事務所を構え、北海道から九州まで、ミッション系の建築を中心にいくつかの作品を残していきます。スワガーは、一般的にいう建築家とは異なり、土木や構造技術といったエンジニアとしてのスタンスに重きを置いていたようであり、全作品を通じての、彼固有の共通的な意匠や特段のこだわりは見受けられません。旧バーナード邸のようなチューダー風の住宅や、山手カトリック教会のゴシック建築などの古典様式の建築があったかと思えば、ヘルムハウスのようなモダニズムな感覚や、関西の和風キリスト教会、神戸のイスラム寺院まで、実に多様です。施主の希望を多く取り入れていたということでしょう。1930年代後半に入り仕事も軌道に乗りますが、世界各地で紛争が勃発し、日本にも不穏な空気が流れ始めた頃、スワガーはやむなく日本を離れる決意をします。その後南米へわたり、教会をはじめとする多くの建造物の設計に携わったということです。