四谷シモン(3) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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「せんい館」の4構成

映像・音響・光で未知の経験スペース・プロジェクション”アコ”

映像の題名は「アコ」---主演女優の愛称です。ストーリーらしいものは、ありません。若い女性「アコ」を通じて、1970年代の衣環境、時代感覚、青春のイメージを、直接肌で感じていただくための新映像です。ドームの内壁には、「アコ」の彫刻がスクリーンとともに張りめぐらされ、映像はスクリーン外にも飛びだして、彫刻とからみ、音響・光とともにドーム内をかけめぐり、はねかえり、そこに未知の世界の楽しさを展開します。「アコ」の映像方式は、万国博ではしめて公開されるもので、映像・音響・光がドーム内に飛びだし、観客の人数の大小・動き・観る位置などによって感じ方がかわる≪せんい館≫独特の計算がなされ、空間芸街というまったく新しい分野をここにきりひらいたのです。あなたが、「アコ」と遊ぶ時間は15分間です。

●4つのソフトな物語り展示回廊(セクションA.B.C.C')

パターン・スライド"紋様"-A花や蝶などの画かれたパネルがスライドして、美しい柄・模様の変化をくり広げます。

カラー・ゴーランド-Bアダムとイブの昔から'70年代までの服装の変せんを、ファンタジックなシルエットで表現します。

ホワイト・ワールド-Cカラフル・ワールド-C'白の部屋とカラフルな部屋の対比の中で、よそおいを感じ、また未来インテリアの世界を暗示しています。
ブラウン管は訴える上の2つの部屋でのいこいのひととき、ブラウン管に繊維のふるさとや生いたち、そのイメージが写しだされます。

あやとり人形と鳥ロビー人形と空間ディスプレイ

ロビーは赤い天井に赤いカベ、敷きこまれた真紅のカーペット。赤一色に統一されたごうかな空間です。ロビーに展示されている繊維のオブジェは、≪せんい館≫のために世界各国からわざわざおくられてきた貴重なものです。

ロビー人形フロックコートの奇妙な人形が、皆さまをお迎えします。人形は集まってあやとり遊びをしたり、不思議な言葉で話しかけたりします。あやとり遊びは、一本の糸を織ったり編んだりすることから始まる「豊かな衣生活」を、不思議な言葉は、繊維のとどまるところを知らない未来を表現したものです。

空間ディスプレイ-鳥空を飛んでみたいという果てしない人間の夢、宇宙時代の現代と永遠に羽ばたき続ける限りない繊維の未来を、ロビースペースの空間ディスプレイ、「鳥」で、豊かに象徴しました。「鳥」は、特殊な照明装置によって、赤いロビー内や大ドームの壁面に影を落として、大乱舞をはじめます。

多彩なモードの世界へのいざない・・・ショウ・エリア---プラザ“U”

U型のショウ・エリアでは、国内や国際的な団体の、ウールやシルク、化学せんい、コットンなどの華麗なショウがつぎつぎと繰り広げられす。


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★「せんい館」スタッフ★

1950-60年代に発生した、さまざまなメディアのあいだを横断するような芸術運動「インターメディア」。その延長線上に70年の大阪万国博覧会は位置しており、山口勝弘(三井グループ館)、松本俊夫(せんい館)、中谷芙二子&E.A.T.(ペプシ館)など、インターメディアの試みにおけるテクノロジーの導入が、国家的な文化事業のレヴェルで達成されました。「何でも好きにやっていいという条件で引受けた」という松本俊夫さんが総合ディレクターを務めた「スペース・プロジェクションのための音楽」は、作曲家・湯浅譲二さんが手掛けました。

総合プロデューサー兼ドームの創作ディレクター・松本俊夫

総合プロデューサー・工藤充

映像ディレクター・鈴木達夫

音響ディレクター秋山邦晴

照明ディレクター・今井直次

造形ディレクター・横尾忠則(建築デザインとドーム内の彫像を担当)

展示ディレクター・植松国臣+福田繁雄(途中で辞退し吉村益信と四谷シモンが後任に)

作曲・湯浅譲二音響技師・塩谷宏スライド映像担当・遠藤正


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・・・もちろん展示は素晴らしかったのですが、「EXPO'70パビリオン」で最大の収穫は、ミュージアムショップで「せんい館」の当時のパンフレットをゲットできたことです。もう、感動ものです。


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●〔松本俊夫

1932年、愛知県生まれ。55年、東京大学卒業。日本の前衛的記録映画、実験映画、マルチ映像、ビデオアートの草分け的存在として活躍。記録映画『母たち』でベネチア国際記録映画祭サンマルコ金獅子賞(グランプリ)受賞(67年)。『石の詩』(63年)から『記憶痕跡』(87年)に至る実験的短編映画、『新陳代謝』(71年)から『偽装』(92年)に至るビデオアート、『薔薇の葬列』(69年)、『修羅』(71年)から『ドグラ・マグラ』(88年)に至る実験的劇映画などを国内外で発表。複合メディアの領域において、「日米クロストーク・インターメディア」(69年)に参加、その後、大阪万博せんい館(70年)の総合ディレクターを務めた。映画理論家としても、『映像の発見』(63年)、『表現の世界』(67年)、『映画の変革』(72年)、『幻視の美学』(76年)、『映像の探求』(91年)、『逸脱の映像』(2013年)など著す。制作・執筆と同時に、映像教育の分野にも尽力。東京造形大学デザイン科助教授(68-71年)、九州芸術工科大学芸術工学部画像設計学科教授(80-85年)、京都芸術短期大学映像専攻課程主任教授(85-91年)、京都造形大学教授(教務部長・91-94年、芸術学部長・95-96年、副学長・95-98年)、日本映像学会会長(96-02年5月)、日本大学芸術学部教授(99-02年)、日本大学芸術学部大学院客員教授(02-12年3月)を歴任。

【参考】Obscure Tape Music of Japan vol.14

湯浅譲二他「大阪万博・せんい館の音楽」/発売:2011.9

大阪万博のせんい館といえば、湯浅譲二のマルチ・チャンネルのミュージック・コンクレート音響と松本俊夫の映像による「スペース・プロジェクション・アコ」が有名ですが、館内の各所に設置されたオブジェに仕掛けられた音や、各スペースで流された音も、おざなりの背景音楽ではない前衛的な指向を持った音楽として制作されていました。3曲目では湯浅の代表的電子音楽「プロジェクション・エセムプラスティク」を加工し、映像ドームでイベントのない時間帯に流された曲では、マリンバの音を変調して鐘のような響きを出すなど、BGMとして流すにはもったいないものばかり。「ウルトラQ」など円谷作品の音響を担当し、館の音響技師として働いた松本好正氏所蔵のテープを発見、初公開!

【収録情報】

track 1:パターン・スライド「紋様」の音楽(6:10)

track 2:カラフル・ワールドの音楽(8:13)

track 3:ホワイト・ワールドの音楽(8:44)

track 4:「ロビー人形」の声(日本語版、英語版、ポルトガル語版のミックス)(13:36)

track 5:オブジェ「大ガラス」の声(3:43)

track 6:映像ドーム内のBGM(7:32)


・・・このCDも聴いてみたいものです。


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●〔工藤充

京都の広告代理店から松本俊夫さん万博せんい館の企画依頼があり、当初は映像をやる程度の話でした。せんい館パビリオンを作る敷地は、せんい館協力会いう全繊維会社が金を出して押さえた場所です。松本さんと二人で人選して、今も活躍しておられる横尾忠則をトータルデザイナーに、映像は松本俊夫、音楽は湯浅譲二とか亡くなった秋山邦晴氏に音響も含めて音楽監督をお願いしました。技術はアオイスタジオに頼んだり、いろいろアレンジしてやったわけです。

●〔吉村益信

1960年に「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」を結成。60年代後半には金属製のメビウスの輪に電球を走らせた《反物質;ライト・オン・メビウス》等、テクノロジーに関心を寄せた作品が評価され大阪万博へ参加。万博のせんい館のために制作した《大ガラス》や、その直後に制作した《豚;pig' Lib;》等。

●〔秋山邦晴〕

1968/大阪万博(Expo'70)の「お祭り広場」及び「せんい館」の音楽ディレクターに就任。松本俊夫の三面投影の映画「つぶれかかった右眼のために」の音楽を作曲。

1969/代々木・国立競技場の巨大なスペースを使って音楽・映像・光のインターメディアの大イヴェント「クロストーク・インターメディア」を開催。聴衆1万人以上が集まり話題となる。

1970/万博の開会式典のための<鐘の音楽>を作曲。


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四谷シモン「マグリットの男」制作秘話

せんい館の企画をすすめていた広告会社の植松国臣さんから依頼を受けて、制作しました。大きなプロジェクトだったので、実際に制作したのは1968年ころからです。展示する場所が「せんい館」なので、何か糸にちなんだ作品を考え、当時話題になりはじめていたレーザー光線が反射し合うようにしました。造形の方は、ベルギーのシュールレアリスト、ルネ・マグリットが好きだったのでそれを思い浮かべ、黒いフロックコートを着た人形のアイデアを出して、マネキン会社に制作してもらいました。作品点数としては、同じものを10数点つくりました。万博終了と同時に、それらの多くは所在不明となりましたが、そのうちの2点がわが家に戻ってきました。しかし、なんといっても約2メートルの巨大な作品なので、置く場所に困った私は、唐十郎さんに相談して、山中湖にある状況劇場の稽古場に預かってもらうことにしました。唐十郎とんは、それを「ヨーロッパ」と名づけました。その後、そのうちの1点が1971年の状況劇場の芝居「吸血姫」に使われ、高石かつえ役の私と競演したのです。


・・・まだまだ調べたりませんが、この1970年代に21世紀の源泉があることは紛れもない事実です。次は、「四谷シモン展」に行ってみよう。