・・・内部の様子については、WEBへの画像掲載は許可されておりませんので、その素晴らしさをお伝えできないのが残念です。せめて、外観から想像してください。できれば、ぜひ訪問されることをお勧めします。
★武庫川女子大学甲子園会館(旧甲子園ホテル)/登録年月日:20090108
663-8121兵庫県西宮市戸崎町1-13/0798-67-0290
http://www.mukogawa-u.ac.jp/~kkcampus/index.html
甲子園会館は、昭和5年に甲子園ホテルとして竣工し、その後海軍病院・米軍の将校宿舎を経て、昭和40年、武庫川学院が譲り受け教育施設として再生しました。かつては「東の帝国ホテル(明治村で建物の一部を保存)、西の甲子園ホテル」と並び称され、阪神間における高級社交場としても賑わいました。大学のキャンパスとなった現在も、学生や武庫川女子大学オープンカレッジ受講者をはじめ各方面からの見学など、多くの人に利用されています。また2006年4月から新設の生活環境学部建築学科(大学)、生活環境学研究科建築学専攻(大学院)のキャンパスになっています。
★遠藤新(1889年~1951年)
アメリカの建築家フランク・ロイド・ライトの高弟として知られている。東京・東久留米の自由学園の校舎群(1929年~)や甲子園ホテル(1930年)、賛育会病院(1930年)、梁瀬自動車本社ビル(1931年)などを設計した建築家で、明治22年(1889年)6月4日に福島県宇多郡福田村(現在の相馬郡新地町福田)に生まれた。平成23年(2011年)3月11日に起きた地震と津波で被災した新地町には、遠藤の設計で武蔵野市に建てられた小塩完次邸(1932年)が移築されている。遠藤は、相馬中学校、第二高等学校を経て大正3年(1914年)に東京帝国大学工科大学建築学科を卒業した。そして、「東京停車場と感想」という東京駅についての論評を、東京帝国大学教授伊東忠太(京都の平安神宮(共同設計)、東京の築地本願寺などの設計者)の薦めで投稿し、大正4年1月の読売新聞に掲載された。東京駅の設計者は建築界の大御所、辰野金吾であった。論評は、都市計画上の問題や平面計画の問題、国民と建築との距離の問題へと展開されている。
明治神宮の建設に関わった後、1917年、帝国ホテルの設計を引き受けたライトの建築設計事務所に勤務。建設費用がかかり過ぎるとしてライトは解雇され、途中で帰国してしまうが、遠藤ら弟子が帝国ホテルを完成させた。関東大震災後には応急建築に奔走し、賛育会産院・乳児院、銀座ホテル、日比谷世帯の会マーケット、東洋軒、陶陶亭、盛京亭、第一屋分店・山邑酒造店などのバラック建築を手掛けた。また、自由学園、山邑邸も、ライトの基本設計を元に完成。
甲子園ホテルは、当初甲子園球場付近に建設される予定であったが、武庫川と国道2号線に囲まれてやや小高い現在の敷地に変更された。1930年竣工後、帝国ホテルの総支配人だった林愛作が甲子園ホテルに移り支配人となった。「東の帝国ホテル、西の甲子園ホテル」と並び称される関西屈指のリゾートホテルとして、西宮市の武庫川沿いに開業した。フランク・ロイド・ライトの意匠を継承する独創的な名建築で、屋根には淡路産の緑の瓦、日華石と素焼きタイルの壁、ホールの光天井に市松格子の障子、シンボルの打出の小槌のオーナメントなど、洋式建築に巧みに「和」の要素が取り入れられ、華麗でモダンな姿は「東の帝国ホテル、西の甲子園ホテル」と並び称された。皇族、閣僚をはじめ、文化人や海外の要人が宿泊。大リーガーのベーブ・ルースらも利用し、舞踏会では作曲家山田耕筰がオーケストラを指揮したといわれる。1935年からは満州と日本を行き来して設計活動を行った。1945年満州にて第二次世界大戦の終戦を迎えたが、翌年心臓発作で入院し、半年後に日本に帰国した。1949年からは文部省学校建築企画協議会員を務め、戦後占領下の日本における学校建築のあり方に対する提言を行った。1951年4月体調を崩し、東大病院に入院。2ヶ月後、同病院にて死去した。
・・・先日訪問した「毛馬閘門」と同様、「紅葉」と見事に溶け合って本当に感動しました。