野球ミュージアム(5) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・難波に行く用事がありましたので、



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なんばパークス

556-0011大阪市浪速区難波中2-10-7006-6644-7100

http://www.nambaparks.com/

かつてプロ野球球団「南海ホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)」の本拠地球場として使用され、1998年に解体された大阪球場の跡地に、南海が「未来都市なにわ新都」をコンセプトとして再開発を実施。2003年10月7日に第1期部分が、2007年4月19日に第2期部分が開業した。なお、2005年4月1日からは南海の完全子会社である「南海都市創造」が営業を行っていたが、同社は2010年10月1日、南海に吸収合併され解散したことから、再び南海による直営となっている。建物はキャナルシティ博多や六本木ヒルズを手がけたアメリカ人のジョン・ジャーディ(Jon Jerde)の設計。地球上の大峡谷に似せた建物の外観は雄大で、壁面は壮大な時間と地層を模している。第1期、第2期エリアを含めて彼の建築作品は完成となる。イメージソング「Loving Life」を手がけるなど、葉加瀬太郎がイメージング・プロデューサーとして参加している。また、南海グループが高島屋と共同で行っている難波地区のPRキャンペーン「Lov↑ng NAMBA」(ラヴィング・ナンバ)の現在のマークも彼の手による。

「なんばパークス」の屋上公園「パークスガーデン」が、公益財団法人都市緑化機構主催の2014年度『SEGES(社会・環境貢献緑地評価システム):都市のオアシス』認定緑地に決定しました。審査にあたっては、充実した管理体制や環境への配慮によって長く良好な景観維持がなされている点が評価され、このたび関西では唯一の認定緑地となりました。


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大阪球場

戦後、南海電鉄は大阪市域での集客事業の展開のため、球場を建設するという方向性をうちだし、昭和24(1949)年「大阪スタヂアム株式会社」を設立しました。翌昭和25(1950)年、大阪球場が南海電鉄難波駅に隣接する浪速区蔵前町(現在の難波中)の大阪地方専売局の工場跡地に建設されました。開場は9月12日でしたが、台風接近の荒天のため記念式典のみ開かれ、初試合として予定されていた南海ホークスの紅白戦は9月14日に順延されました。当初のスタンド収容人員は内野席が1万5千人、外野席が1万4千人の計2万9千人でしたが、当初から西側外野スタンドの増改築拡張が想定されていたらしく全体が完成すると3万5千人を収めることが可能とされていました。また、スタンド下部が5階建てのテナントビルとして利用されたのも画期的なことでした。都心という絶好の地の利を生かして、パ・リーグのみならずセ・リーグの試合が組まれるケースも多くなり、さらに歌謡ショー、オペラ、運動会など様々なイベントの開催場として、大阪球場はその名を高めていきました。しかし、やがて都市人口のドーナツ化現象が進行し、都心の人口が郊外に移動すると都心の球場は観客から遠い場所となり、パ・リーグの人気低迷も重なり来場者は減少していきました。そして昭和63(1988)年、南海ホークスは50年という球団の歴史に幕を閉じました。2年後の平成2(1990)年のシーズンまでは、福岡ダイエーホークスがビジターとして大阪球場に来て近鉄バファローズと試合をするなど、球場として存続しましたが、その後、フィールドは住宅展示場や仮設テントによるミュージカル上演などに使用されます。平成10(1998)年10月には「さよなら大阪球場!野球フェスタ98」が開催された後、スタンドの取り壊しが始まりました。現在、跡地は複合商業施設「なんばパークス」となっています。



階部分には、ホームベースとピッチャーズプレートをかたどった銘板が埋め込まれており、かつて大阪球場があったことが刻まれています。


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階に設けられた屋外イベントスペース「円形劇場」の客席部分は大阪球場の外野席の形状そのままに作られています


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階には「南海ホークスメモリアルギャラリー」が設置されています。


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・・・みなさんも「パークスガーデン」を散歩しながら、「野球ミュージアム」もお楽しみください。