・・・「毛馬こうもん」そして「淀川大堰」むっちゃ迫力があります。
【参考】閘門あるいはロック(Lock)
「閘門」とは水位の高低差がある二つの水路の間を船が行き来するときに、水位差を調整してもう一方の水路への移動をスムースに行うものです。このときに調整するためのスペースに船が入っていくのですが、そのスペースを「閘室」といいます。
◆淀川大堰
淀川では、昭和28年台風13号をはじめ、34年の伊勢湾台風、36年、40年とたびたび洪水に見舞われました。そのため、淀川水系工事実施基本計画が改訂され、計画高水流量が6,950m3/s から12,000m3/sになり、計画流量を安全に流下させるための低水路の拡幅掘削にあわせて、長柄可動堰を改築する必要が生じ、代替施設として淀川大堰が建設されました。淀川大堰は、従来の長柄可動堰の機能を保持しつつ、治水機能の向上を図る施設であり、1)塩水の遡上を防止する潮止め機能、2)都市用水等の取水や、大川・神崎川へ維持用水を流入させるために必要な水位保持機能、3)渇水時の都市用水を確保するために必要な調整機能を有しています。現施設は建設省が施工し、管理についても他の水門や排水機場等との一体管理が必要なため、水資源機構と国土交通省との間で管理協定を締結し、国土交通省が操作運用を一体的に担っています。淀川大堰の操作は、毛馬排水機場の操作棟内で行われ、大堰、水門、閘門等の各施設の遠隔操作、各種水文データの収集と放流量・ゲート開度、安全対策等の大堰周辺の総合的な監視を行っています。
★淀川旧分流施設・毛馬洗堰/重文指定年月日:20080609
http://www.city.osaka.lg.jp/kyoiku/page/0000009191.html
★淀川旧分流施設・毛馬第一閘門/重文指定年月日:20080609
●淀川改修紀功碑
http://www.city.osaka.lg.jp/kyoiku/page/0000009187.html
明治29年より始められた淀川改修工事は、上流部では瀬田川の浚渫(しゅんせつ)と南郷洗堰の設置による琵琶湖水位の安定化、中流域では河川の屈曲部や川幅の改良、下流部では毛馬から下流を川幅を広げ直線的に大阪湾に注ぐという、大規模かつ横断的なものであった。工事は同42年に概ね終了し、これを記念して毛馬閘門と洗堰の間に淀川改修紀功碑が建設された。碑は高さ10.6m、下半部は洋風建築の細部意匠を忠実に表現し、上半はゆるやかに上方を細めた円柱を立てた堂々たるものである。大阪の近代化に重要な位置を占める淀川改修を象徴的に示す記念碑としても貴重である。
●毛馬の残念石
江戸時代に大坂城を再建するときに伏見城から運ばれた石垣の石がその途中で運搬船から転落し、淀川改修工事の際に引き上げられたものとされる。
●毛馬北向地蔵
一体は、明治の終わりごろに旧毛馬洗堰新設工事のとき、浚渫により、大川から発見された。一体は、大正9年頃、内務省機械工作所が旧光龍寺(十三付近といわれている)の整地のときに掘り出された。一体は、昭和6年頃、土佐堀の旧内務省大阪土木出張所(現建設省近畿地方建設局)敷地内にあったものを移転し、この地に安置された。このお地蔵さんは、そのむかし、聖徳太子が仏教を広めるために大阪市天王寺区に今もその名が残る六万体町で六万体のお地蔵さんをつくらせ、全国にそれを安置させたそのうちの三体であり、歴史的にも古く、淀川を洪水から守っていただくなど、霊験新たかなお地蔵さんで、遠くからの参拝者も多く、毎年8月23日の地蔵盆には御詠歌で供養している。
・・・「赤レンガ」と「紅葉」が織り成す神秘の回廊です。
淀川旧分流施設は、内務省による淀川改良工事として、土木監督署技師沖野忠雄の計画に基づき、建設された。毛馬洗堰は、明治43年1月の竣工になり、延長18.4mの煉瓦造及びコンクリート造構造物で、翼壁を附属する。また毛馬第一閘門は、明治40年8月竣工になり、長さ105.7m規模の煉瓦造及びコンクリート造構造物で、閘室、閘頭部、閘尾部よりなる。淀川旧分流施設は、わが国最初期の高水工事であるとともに、初めて大型建設機械を導入して実施された淀川改良工事の代表的遺構として、近代河川史上、高い価値がある。水路長さ:約80m/水路幅員:約10m/側壁高さ:約8m
・・・いつまでも、この特別な空間と時間を味わっていたい。