・・・「安治川水門」「「三栖閘門」と感動が連鎖してきましたので、ぜひとも「毛馬閘門」に行かなければと決意したのです。
【参考】安治川水門は、日本で最初にできたアーチ型の水門です。台風などで押し寄せてくる大阪湾からの高潮をせき止めるはたらきをもっています。
http://www.pref.osaka.lg.jp/nishiosaka/river/aji-gate.html
※三栖閘門 http://www.misu-museum.jp/
●天神橋筋商店街
大阪市北区天神橋1~7丁目南北約2.6kmと直線で日本一の長さを誇る「天神橋筋商店街」は、約600店のお店が軒を連ねます。お店は、専門店からアイデアショップ、飲食店まで様々です。この日本一長い商店街を完歩すると「満歩状」がもらえます。日祝日は、一丁目の「大阪天満宮 授与所」で申告札、中間、三丁目でスタンプをもらい、七丁目の「洋菓子のアトリエアルション」で申告札を見せます。七丁目から出発すると、一丁目で満歩状を受け取ることも可能です。月~土は一丁目は、「大賀天神橋薬局」、七丁目は「あらもの西台商店街」で実施しています。参加費は無料です。
・・・今回の目的は「毛馬閘門」ですから、天六から天七へと北上します。
◆長柄八幡宮
531-0062大阪市北区長柄中3-3-1/06-6351-6908
http://nagarahachimangu.web.fc2.com/
永仁4年(1296年)に山城国の石清水八幡宮(男山八幡宮)より御神体を勧請して祀られたのが起源でございます。主祭神を八幡大神とし、御神体は今より約710余年前、即ち八幡神崇敬の最も盛んな鎌倉時代の特徴を表現した国宝的価値ありと謂われる僧形八幡神像を安置しており、神仏習合に依る神宮寺であります。又、本社と表裏一体の関係にある相殿には出雲神社の大己貴大神、少彦名大神をお祀りしております。その存在を証するものに享保3年、同7年、元文3年、延享2年、同4年、慶応元年の検知図書に記載されております。又、社殿の建替を記録するものには明応9年3月18日、文禄3年、宝永5年8月12日、大正6年5月25日、昭和40年10月18日の5ヶ度になります。明治5年村社に列し、同42年6月大阪府告示第203号により幣帛共進指定神社となり大正3年3月31日に北長柄村末広住吉神社を合併しまして現在に至っております。さて、この度、長柄八幡宮社務所建て替えに伴い既存家屋を解体と新築することになりました。工事中は、ご迷惑をおかけすることもあるかと存じますが、何卒ご理解ご協力賜りますよう宜しくお願い申し上げます。
◆毛馬橋
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000022238.html
毛馬の地は俳人与謝蕪村の出身地として有名である。蕪村は、20歳頃故郷を出て、各地を漂泊、晩年に『春風馬堤曲』によって故郷への思いを吐露している。後の淀川改修によって蕪村の出生地は、川の中になってしまった。毛馬の渡しは古い歴史をもっている。大阪の北部から枚方、京方面へ行く人々はこの渡しを利用した。この地は淀川の本流であったから、行き交う船も多く、船客相手に酒や食べ物を売る煮売舟で賑わったとされる。この地に初めて橋が架けられたのは、大正3年のことである。地元の熱心な架橋運動の結果、長さ155m、幅3.6mの木橋が完成した。その経緯が橋詰の竣工記念碑に刻まれている。
市街地の拡張にともなって、この地を通る中津赤川線が、昭和12年に第三次都市計画事業によって造られることになり、毛馬橋の設計も進められていたようであるが、資金不足のために日の目を見ずに終わった。昭和21年に中津赤川線は25mの道路として都市計画決定されたが、ようやく昭和36年に幅8mの橋が完成した。橋の形式は連続合成桁という当時最新の理論と技術によって設計施工された。その後、昭和54年にようやく計画通りの25m幅の橋に拡幅されている。
◆春風橋
都島区友淵町1丁目~都島区毛馬町1丁目
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000029575.html
春風橋は、中之島と千里の万博記念公園を結ぶ大阪吹田自転車道線(大規模自転車道)の一環を形成する橋として建設された。基本形式の選定においては、大川側からよく目につく位置にあるため、古くからある橋との景観上の調和についても最大限の配慮をしている。PC橋でスマートな直線を活かし、橋長105mの3径間連続プレストレストコンクリート箱桁が採用された。橋の名前は、この地の出身である俳人与謝蕪村の句「春風や堤長うして家遠し」(春風馬堤曲)にちなんでおり、橋銘板の文字も蕪村の自筆句集から複写した。阪神高速道路の下という立地だが、明るい空間の創造と、親しまれやすく見て美しい橋を目指した。
◆城北川(城北運河)
http://www.city.osaka.lg.jp/joto/page/0000000606.html
城北川は、寝屋川と旧淀川(大川)をむすぶ全長5615メートル、川幅40メートルという人工の水路です。もとの城北運河のことで、昭和60年(1985年)新しく河川改修事業がスタートするのを機会に淀川水系の1級河川に位置づけられ、名称が変更されました。船による輸送を目的に昭和10年(1935年)4月に着工し、昭和15年(1940年)12月に竣工した運河です。この運河の完成による水上輸送は、城東・旭・都島区の運河周辺地域の産業発展をもたらしてきました。しかし、近年の自動車輸送の発達にともない、運河を利用しての水上輸送が減少し、さらに工業・生活排水の流入により水質汚濁が著しいことから、治水対策と調和のとれた水辺環境の形成をめざし、改修工事が進められています。最近では魚が泳ぐほど水質がよみがえりつつあり、市民の憩いの場として魚釣り場・滝の広場・水と彫刻の広場、ジョギングや散歩を楽しめる遊歩道が年々整備延長され、市内では数少ないレクリエーションゾーンのある河川として親しまれています。
運河開削時に設置された大川口と寝屋川口の水門は当初、洪水時の運河内水位の安全を図る防御水門でしたが、満潮時に水質の悪い寝屋川の水が流入していました。また開削後に紡績、化学、木材、鉄工の工場が立ち並び、昭和30年代からの急速な市街化も手伝って、一時は一日7万トンもの汚水が流れる事になりました。さらに地盤沈下の影響でその悪水が長く滞水するという悪循環だったようです。河川浄化が重要な課題となり、下水遮集管の敷設、河底浚渫などの他大阪湾の潮位に連動した水門操作というのが行われるようになりました。
◆淀川神社
534-0001大阪市都島区毛馬町1丁目2-11/06-6921-5980
http://www.city.osaka.lg.jp/miyakojima/page/0000016853.html#yodo_jinja
明治42年(1909)政府の神社合祀令により、城北村大字毛馬(現毛馬町、大東町)の氏神である八幡神社が大阪市北区中野町(現中野町)の桜宮に、また城北村大字友渕(現友渕町、毛馬町の一部)の氏神である十五神社が古市村大字南島(現旭区)の大宮神社に合祀されました。のち毛馬・友渕の両地域では失われた神社復興の願いが強く、昭和26年(1951)に旧十五神社の境内地と社殿を用いて、旧十五神社と旧八幡神社を合祀し、毛馬町・友渕町・大東町の総鎮守として再建されたのが淀川神社です。祭神は天照皇大神と八幡大神です。
◆蕪村公園
http://buson-kensho-u.com/park/park_00.html
江戸時代中期の俳人・画家「与謝蕪村」生誕の地であることにちなみ、「与謝蕪村」を顕彰し、地域の歴史・文化を広く伝えていくとともに、蕪村の魅力を地域住民が知り、公園への愛着を深め、地域の活性につなげることを目的に「毛馬桜之宮公園(蕪村公園)基本計画」を平成18年度に策定し、整備に着手してきました。蕪村公園では、蕪村が遺した俳句や絵画を紹介する顕彰サインの設置を行い、また、それらにちなんだ樹木の植栽などにより、四季折々の花や紅葉などを楽しんでいただきまがら、自然に蕪村に親しみ、その生涯に触れることが出来る公園として整備を行いました。
◆毛馬の水門・閘門
534-0001大阪市都島区毛馬町3-8
http://www.city.osaka.lg.jp/miyakojima/page/0000016853.html
明治18年(1885)の大水害を機に淀川の大改修が行われ、同43年に新淀川が開削されました。このとき毛馬で新淀川と分岐する旧淀川の水量調節と舟運の便のために建設されたのが毛馬洗堰と閘門です。洗堰は川の水が常にその上を流れ越す程度の高さに作った堰、閘門は水位の高低差の大きい河川で水を堰き止めて船舶を通過させる装置です。設計者はオランダ人技師ヨハネス・デ・レーケで、閘門は明治40年、洗堰は同43年に竣工しました。大正7年(1918)に第2閘門が竣工すると元の閘門は平時は開放、高水時は閉鎖して洪水を防ぐ役割を果たしました。その後、昭和49年(1974)上流に新毛馬水門・閘門が築造され、同57年に新しく淀川大堰が完成したことにより、旧洗堰と閘門は役目を終えて閉鎖されましたが、一部はわが国の近代治水工事の貴重な遺産として河川公園内に保存されています。