堺文化財特別公開(3) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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大安寺は応永元年(1394)に徳秀士蔭を開山として創建された臨済宗東福寺派の寺院です。本堂は堺の豪商納屋助左衛門等の居宅を移したものとの言い伝えもあり、内部には金地に様々な図案が描かれた襖絵がはめ込まれ大変豪華な空間です。明治時代以前には、この建物は「方丈」と呼ばれており、お寺の本堂というよりもむしろ住宅風の建物です。屋根瓦の刻銘や部材の墨書から、天和3年(1683)に現在地において17世紀前半に建築された建物の部材を大半再利用しながら、規模を拡張して現在地に建築されました。本堂は江戸時代初めの数少ない方丈建築として、また内部の障壁画も狩野派の優品として重要文化財に指定されています。



たい1


方丈はもともと禅宗寺院においては僧侶などの住居空間でしたが、仏壇などを置くことにより次第に本堂として使われるようになった建物のことをいいます。


大安寺本堂障壁画

http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/bunkazai/bunkazai/shokai/bunya/kaiga/daianjihekiga.html

大安寺本堂の障壁画は、重要文化財に指定されている本堂の内部四室にわたって描かれています。これらの障壁画は、17世紀前半の狩野派の作者によるもので、戦前の国定教科書の「画師の苦心」で有名な「枝添えの松」など、古くからその存在が知られていました。本堂の建物と並行して、平成8年度から6年間障壁画の保存修理がおこなわれ、その結果、江戸初期に建てられた建物の部材を大量に再用して、天和3年(1683年)に移築再建されたことがわかりました。障壁画もまた、前身となる建物に用いられていたものを、現在の間取りと合わせ、工夫して切り縮めたり、継ぎ合わせたりして再利用されています。紙継ぎの跡などからわかる前身建物の間取りは、納屋助左衛門の邸宅であったという伝説を思わせるような書院造の住宅建築でした。桃山時代から江戸初期の堺の繁栄を伝えるほとんど唯一の資料として、そのまとまりと作行きの優秀さともあわせて大変貴重な作品といえます。


たい2


開口神社 http://www.aguchi.jp/

堺市堺区甲斐町東2丁1-29072-221-0171

旧市内唯一の式内社で塩土老翁神、素盞嗚神、生国魂神を祀っています。天平18年(746年)行基が境内に念仏寺を建立し、大同元年(806年)空海が宝塔を建てたので「大寺」とも呼ばれています。元禄3年(1690年)制作された土佐光起筆の「大寺縁起絵巻」、鎌倉時代の仮名の名筆、和歌は京極派の詠み手として知られる伏見天皇の「伏見天皇宸翰御歌集」、社伝によれば室町幕府十代将軍義稙寄進の「短刀銘吉光」は重要文化財です。また、「開口神社文書」は鎌倉時代から江戸時代の開口神社と大寺念仏寺関係の古文書で、府の有形文化財に指定されています。


開口神社文書

http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/bunkazai/bunkazai/shokai/bunya/syoseki/aguchijinjamonjo.html

開口神社文書は、鎌倉時代から江戸時代にいたる開口神社と大寺念仏寺関係の古文書です。文書群の内容は田地寄進状、田地売券、所領安堵状、室町幕府関係文書、秀吉朱印状など多岐に渉っています。特に、「天文四年(1535年)四月二十八日念仏寺築地修理料差文」(念仏差帳日記)には千利休などの名が見られます。これらは開口神社と大寺の歴史のみならず、堺の歴史を知るうえで欠くことができない史料です。


たい3


・・・来年3月オープンの「さかい利晶の杜」が楽しみです。


泉陽高校発祥の地記念碑

http://www.aguchi.jp/aguchijinjya12.html

大阪府立泉陽高等学校はその創立の年を、市立堺高等女学校が開設された明治33年(西暦1900年)としておられます。しかし堺高等女学校を遡れば、明治7年5月に設置された女紅場に辿り着きます。その女紅場の誕生地は当開口神社であります。平成12年12月に創立100周年記念として同窓会泉陽会の手により『大阪府立泉陽高等学校発祥の地』の石碑が当神社境内に建立されました。高校の歴史は100周年記念誌「泉陽高校百年」に詳しく綴られています。また「堺市史」第3巻にも記録されています。明治7年6月25日付で堺県に提出した当社文書には「祠官宅女紅場ニ、御入用ニ付、明渡候様、被仰付、今廿五日、社内連歌所ヘ、引移候間、此段、御届奉申上候、以上 云々」とあり、当時の神職の役宅が女紅場に使用されるために、転宅を言い渡された様子がうかがえます。此のころの当社は、神仏分離令の為に、境内堂宇の模様替え等でばたばたしていて、新しい時代に対処する大変な時期だったようです。時代は子女の教育に関心がもたれ学制が整うのを待たずにいろいろな教育機関が作られました。


・・・沢口靖子さんの名前も刻まれていました。


たい4


茶室無礙庵(八窓茶室)

http://www.aguchi.jp/aguchijinjya4.html

秋の文化財特別公開でご覧頂きます無礙庵は、武野紹鴎好みの茶室と伝えられ、戦前は八窓茶室とも八窓の席とも称していました。武野紹鴎は甲斐或いは若狭の武田氏一族の流れをくむ人で、奈良に生まれ後堺へ移り住みました。北向道陳と往来し又利休を薫陶した中世堺の中心的数寄者の1人で、利休の名もある当社古文書「念仏差帳日記」にも記載されています。南宗寺の大林和尚に参禅し、天文18年8月1日に道号を授与されました。堺から住吉にかけての林泉を愛し、紹鴎の森と称される処もあったそうです。当社の八窓茶室(今は無礙庵)伝来の詳細は詳らかではありませんが、戦前は境内南側の客殿の庭園の脇にありました。よくこの時期の特長を伝えていましたが、昭和20年7月9日夜半の戦災で惜しくも焼失し、平成元年7月現在の客殿横に乏しい資料を元に再建しました。敷地の関係で東向きが南向きに変わり、床は蹴込床から本床に変わっています。八窓と云いながら7つの窓であるところから、再建にあたり無礙庵と名付けられました。四畳半の茶室と三畳の水屋からなり、躙り口は鴨居に達している障子であります。


たい5


・・・山之口商店街に出ると、与謝野晶子のミニ展示もあったりして、最後の最後まで「堺」を楽しむことができました。ボランティアの方々には本当に感謝です。