・・・大きなお寺には「塔頭」がありますので盛りだくさんですが、「本源院」さんは公開されていませんでした。
◆海会寺
元弘2年(1332年)に創建された臨済宗東福寺派の寺院で、大坂夏の陣(1615年)で伽藍が焼失したため、開口神社付近から現在地に移転し再建されました。山門をくぐると正門に門廊が、そして左側には本堂と庫裏があります。本堂、庫裏及び門廊は国の重要文化財に指定されています。本堂の内部は一室で仏間にかかる虹梁の彫刻や蟇股の形は、17世紀初め頃の特徴をよく表しています。本堂に続く庫裏は広い土間と畳の部屋が「田の字」型に並ぶ間取りで、土間は吹き抜けで大きな梁がかかり力強い空間構成です。畳の部屋は一間ごとに柱が立つという古い建築工法が用いられています。本堂と庫裏が一棟の建物というのは江戸時代の初めの寺院建築としては珍しく大変貴重です。また、「牡丹花詩集」は海会寺の開祖、乾峯士曇をはじめ33人の禅僧が「牡丹」の題で作った漢詩を集めたもので、乾峯自身が文和5年(1356年)にその序文を書きました。序文は乾峯の筆の特徴、書かれた年代などがはっきりしており、わが国の書道史・文学史において貴重な作品で、市の指定有形文化財になっています。
・・・私が訪問した日は「お茶会」が催されており、残念ながら入ることはできませんでした。
◆徳泉庵(塔頭)
南宗寺の塔頭で臨済宗大徳寺塔頭高桐院に属します。慶安元年(1648)松江宗安(銭屋の屋号をもつ堺の豪商で長崎より中国人を招いて紗の金襴織りや白粉製造の伝修を得て堺で製造販売を始めた人)がはは徳泉追福のために創建、清巌宗渭(のち大徳寺第170世となる)を請して開祖としました。宝永元年(1704)の記録には塔頭に圓成庵の名が記録されています。本尊は観世音菩薩像で本堂・庫裏・勅使門の外に稲荷社と地蔵堂があります。明治41年(1908)6月には禅楽寺を併合しました。寺宝に開祖清厳上人木像一躯・同自画頂相一幅・禅楽寺重興開山天倫上人木像一躯・大心上人木像一躯があります。墓地には宗安を始め、父宗訥・母徳泉・徳泉の父誉田屋徳隣及び宗安の子遠貞の墓碑があります。
◆發光院
通称「あいぜんさん」です。發光院の降魔釈迦銅像はタイからもたらされ、戦災で大きな損傷を受けながら井戸に投げ込まれて焼失を免れたとされる。今回は修復後初の公開。
・・・小さいですが、なかなかジ~ンと来るものがありました。
【参考「堺市史」第七巻】發光院は遍照山大日寺と云ひ、俗稱愛染、新在家町東三丁字寺町にあり、眞言宗大覺寺派大覺寺末で、寺格三等格院。元和八年風海の開創に係り、當時は高野山一心院谷延命院の末寺であつたが、元祿十年四月大覺寺末となつた。(本堂御掛札)【本尊】本尊は寺傳空海作愛染明王で、本堂、庫裏、客室、長屋門あり、外に龍王堂がある。境内二百二十七坪。(社寺明細帳)【舊向泉寺本尊】什寶中傳中將姫作十一面觀世音菩薩は舊向泉寺の本尊で、世俗之を方違觀音と呼んでゐる。又傳行基作地藏菩薩木像一軀及び暹羅將來の降魔釋迦銅像一軀は臺座背面に裸婦の浮彫あり、【具足屋傳來の天道佛】其左右に具足屋〓〓(一子カ)傳來之天道佛と陰刻し、正法寺所藏の釋尊降魔成道圖と相俟つて、日暹貿易史上の貴重なる資料となつてゐる。
◆大安寺/堺市堺区南旅篭町東4丁1-4
http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/bunkazai/bunkazai/shokai/bunya/kenzobutu/daianji.html


