◆上宮高等学校「書道部」
字は書く人の心を表します。整った字を書くことで心を整え、美しい字を書くことで美しい心を持つ人になりましょう。活動は基本週2回ですが、展示会前には集中的に取り組み、納得のいく作品を出展できるようにしています。
まだ創部してから2年にもかかわらず、「全国高校書道パフォーマンス選手権大会」に出場し活躍しています。北は北海道、南は九州までの予選を勝ち抜いた各高等学校書道部が集います。第六回大会で、上宮高校は「紫舟賞」を獲得しています。
※紫舟
書道家。六歳より書をはじめる。書の本場奈良で三年間研鑽を積んだのち東京へ。書を用い、文字をイメージ表現・表情・感情をつけ情報としての文字に意思を吹き込む。そして日本の伝統的な書を、世界に通用する「意思を表現する」手段として世界を舞台に発信している。
書には、美術品としてと、文字を表現する手段としての要素があります。私は後者の可能性を信じ、書き続けています。書という表現手段を用い、文字をイメージ表現・絵にする、文字に表情・感情をつけ、単なる情報としての文字に意思を吹き込む。その都度求められている最良の答え-最も適した文字- で応えていくことができれば、日本の伝統的な書は、世界に通用する「意思を表現する」手段になる、そう信じています。世界に通用する日本の書。文字を表現する手段として、世界標準となる書。それぞれの国の言語に、書という表現手段で文字に表情・感情をつける。書の表現も、音楽のように、国境を越えて理解されていく。ハリウッド映画のタイトルも、表現することができる。文字を表現する手段としての書の無限の可能性を信じ、世界に通用する書家になろうと思います。
文字は平面である。生きている感情は立体である。感情と文字が一体となり表現された書には意志がある。その 「書」は、光を受け、影をおとす。
・・・ぜひ、展覧会に行ってみたいですね。
【参考】映画「書道ガールズ!!わたしたちの甲子園」
折からの不況の影響で活気を失っていた日本一の紙の町・愛媛県四国中央市で、愛媛県立三島高等学校書道部の部員達が我が町を盛り上げようと、地元のイベントやショッピングセンターなどで書道パフォーマンスを始めたところ、地元テレビ局の南海放送の密着取材がドキュメンタリー番組『NNNドキュメント』で取り上げられたり、やがて日本テレビの情報番組『ズームイン!!SUPER』で中継され、徐々に知名度を上げていった。2008年7月には、地元の祭り「四国中央紙まつり」の中で、第1回書道パフォーマンス甲子園が開催され、その模様を『ズームイン!!SUPER』で放送したところ大きな反響を呼び、一躍その名が全国に知れ渡ることになる。この実話を基にこの作品が作られることとなった。
・・・「伝統文化」を継承発展するためには、やっぱり若者たちの力が必要です。切手まで発売されているなんて、スゴイ。
・・・「西ノ丸庭園」での私の大きな目的は、巨大「水道管」を間近でもっと詳しく観察することにありました。
【参考】石垣発見のきっかけとなった配水池
公開予定の豊臣期詰ノ丸石垣のすぐ北側に石垣を巡らせたこんもりとしたマウンドがあります。この盛り上がりは、明治28(1895)年に竣工した大阪最古の配水池です。現在は土に覆われていますが、土の下に巨大な貯水槽が埋まっているのです。何度も改修されていますが、北区の一画に今も給水している現役の施設です。今でこそ、大阪城の本丸の中にこんな大きな配水池をなぜ造らなければならなかったのかと思われる方も多いと思いますが、当時は周辺で最も標高の高かったこの場所が選ばれたのです。
★図面を見ると配水池は地下に掘りこんだ施設ではありませんので、徳川期の大坂城も豊臣時代の大坂城も配水池の下にしっかりと残っていると考えられます。大阪城を訪れボランティアガイドをお願いすると、大手門から本丸に向かう途中の太鼓櫓の手前に刻印石があり、そこで刻印石の特徴と徳川大坂城の石垣の特徴を紹介していただけるスポットがあります。そこに立つと、確かに本丸南西部の石垣の算木積の様子がよく観察できるのですが、その先に空堀を横切る2条の大きな鉄管が目に入ってきます。徳川期の優美な石垣曲線に感動しながらも、鉄管を見て「なんと場違いな」と感じられている方も多いのではないかと思います。この2条の鉄管は配水池へ水を揚げる「上り管」と配水池から家庭へ給水する「下り管」です。私も初めて見た時は江戸時代の堀の中に近代的な施設があって何とかならないのだろうかと思いましたが、この管も配水池が建築された明治時代にさかのぼるものだと聞くと、その古さに驚かれるのではないでしょうか。
★明治から第二次世界大戦終戦まで、大阪城ホールや太陽の広場、JR森ノ宮駅のあたりまでの広大な地域に陸軍の武器を製造した「大阪砲兵工廠」がありました。砲兵工廠は武器の製造以外に水道管や橋梁の部材なども製造しており、この管も砲兵工廠で生産されたものです。このように考えますと公開予定の石垣に隣接する配水池も、堀を横切る鉄管も大阪城の歴史を物語る重要な「歴史遺産」と言えるでしょう。今回公開を予定している昭和59年の豊臣期詰ノ丸石垣発見の契機となったのが、配水池の改良工事であったことは豊臣期の地下石垣と大阪城の水道施設との浅からぬ関係を感じずにはおれません。
★石垣に沿った鉄管の表面に、石垣の写真がプリントされています。石垣に融け込んで見えるように行ったものです。
・・・やっぱり近くから観察しないとダメですね。
・・・もう何度も行ってるから、なんて思ってたらアカンということを痛感しました。時代はどんどん変化しているし、自分の知識や観察力は非常にたよりないものです。これからも機会あるごとに、また来ます。