・・・「鳥獣戯画」展でゲットしたお土産の紹介を忘れていました。おたべ・お饅頭・トランプ、そして公式図録をゲットしました。
・・・さて、かえる友の会「関西支部」としてぜひとも押さえておきたいカエル・スポット、「鳥獣戯画」パワーで京都から滋賀へやってきました。
◆木之本地蔵院
529-0425滋賀県伊香郡木之本町木之本944/0749-82-2106
滋賀県長浜市にある時宗の寺院。公式の寺号は浄信寺であるが、一般には「木之本地蔵」「木之本地蔵院」の名で知られている。山号は長祈山。本尊は地蔵菩薩(秘仏)である。境内には秘仏本尊の写しである高さ約6メートルの地蔵菩薩大銅像があり、これは日本三大地蔵の一つとされている。眼病平癒の地蔵として信仰を集めている。
伝承によれば、天武天皇の時代(7世紀後半)、難波浦(大阪府)に金光を放つ地蔵菩薩像が漂着し、これを祀った金光寺を難波の地に建てたのが始まりという。その後、現在の木之本に移転する経緯については2つの異なる伝承がある。一つの伝承は奈良・薬師寺の僧を開山とするものである。これによると、天武天皇4年(675年)、地蔵像をより縁深き地に安置するため聖武天皇の勅命を受け、薬師寺の祚蓮上人が北国街道を下った。休憩のため地蔵像を柳の下に降ろしたところ、そこから動かなくなったため、この地を安置場所と定め、柳本山金光善寺と号して一寺を建立した。後にこの地は、「柳の本」と言われ、さらに「木之本」と言われるようになったという。今一つの伝承は、文武天皇が北陸の白山参詣の途上、木之本の地で紫の雲を見て、この地が霊地であると知り、難波の金光寺を木之本に移したとするものである。以上の草創伝承は各地に多くある霊験譚の域を出ないものであり、どこまで史実を反映したものであるかは定かでない。その後、弘仁3年(812年)に空海が巡錫して修補し、地蔵経を書写し奉納したとの伝承もある。昌泰元年(898年)には醍醐天皇の勅旨により菅原道真が参拝し、長祈山浄信寺と改号したという。建武2年(1335年)足利尊氏は、毎年8月遣使して法会することにした。これは現在も8月に大縁日として続いている。尊氏は暦応元年(1338年)には田100石を浄信寺に寄進している。賤ヶ岳の戦いでは当寺に豊臣秀吉の本陣がおかれた。この戦いの戦火により焼失。慶長6年(1601年)豊臣秀頼の命令を受け、片桐且元が再建した。元文4年(1739年)、寺は再び焼失した。現在の本堂は宝暦年間(1751年~1764年)に僧仁山の勧進により再建されたものである。
●身代り蛙
その昔、お地蔵さんが目を痛めた旅人にカエルの片目を与え、目を治してやった、という伝説から、目や無病息災の仏さまとして知られています。今も地蔵院の庭には片目のカエルが住むといい伝えられており、地蔵の足元には、眼病の回復を願う人々による片目のカエルの置き物が奉納されていす。
・・・まさしく「あふれカエル」お寺でありました。関西支部としての務めを果たして、やれやれです。