・・・かえる友の会・関西支部としては、うれしい情報をいただきました。神戸の「生田神社」にカエルがあるそうなので、早速探しに行きました。
◆生田神社
650-0011兵庫県神戸市中央区下山手通1丁目2-1/078-321-3851
式内社(名神大)で、旧社格は官幣中社。同じ兵庫県内の廣田神社、長田神社とともに神功皇后以来の歴史を有する。かつて、現在の神戸市中央区の一帯が社領であり、これが「神戸」という地名の語源となる。地元では「生田さん」として親しまれており、初詣時期にはもちろん、それ以外の時期にも参拝客が絶えない。
祭神は、稚日女尊(わかひるめのみこと)である。「稚く瑞々しい日の女神」を意味し、天照大神の幼名とも妹とも和魂であるとも言われる。201年に神功皇后の三韓外征の帰途、神戸港で船が進まなくなった為神占を行った所、稚日女尊が現れ「吾は活田長峡国に居らむと海上五十狭茅に命じて生田の地に祭らしめ。(=私は“いくた”の“ながさの国”に居りたいのです。“うなかみのいそさち”に命じて生田の土地に祀らせて欲しい)。」との神託があったと日本書紀に記されている。当初は、現在の新神戸駅の奥にある布引山(砂山(いさごやま))に祀られていた。799年(延暦18年)4月9日の大洪水により砂山の麓が崩れ、山全体が崩壊するおそれがあったため、村人の刀祢七太夫が祠から御神体を持ち帰り、その8日後に現在地にある生田の森に移転したといわれている。平城天皇の806年(大同元年)には「生田の神封四十四戸」と古書には記され、現在の神戸市中央区の一帯が社領であった所から、神地神戸(かんべ)の神戸(かんべ)がこの地の呼称となり中世には紺戸(こんべ)、近年に神戸(こうべ)と呼ばれるようになった。神階は859年(貞観元年)に従一位まで昇った。延喜式神名帳では「摂津国八部郡 生田神社」と記載され、名神大社に列し、月次・相甞・新甞の幣帛に預ると記されている。近代社格制度のもとで1871年(明治4年)に県社に列格し、その後1885年(明治18年)に明治天皇の西国巡幸の際、初めて官幣社に列し官幣小社に、1896年(明治29年)には官幣中社に昇格した。
社殿は、1938年(昭和13年)の神戸大水害、1945年(昭和20年)の神戸大空襲、1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災など何度も災害等の被害に遭い、そのつど復興されてきたことから、「蘇る神」としての崇敬も受けるようになっている。
延暦18年の大洪水の際、社の周囲には松の木が植えられていたが、全く洪水を防ぐ役割を果たさなかった。その故事から、今でも生田の森には1本も松の木は植えられていない。また過去には能舞台の鏡板にも杉の絵が描かれ、元旦には門松は立てず杉飾りを立てる。元あった布引丸山(または砂山とも呼ばれる)場所には旭の鳥居という一の鳥居があり初日の出の日であっても影が出来ない鳥居があるとされる。能の生田敦盛では、敦盛の遺児が賀茂明神への祈誓により当地にて亡き敦盛と対面する。
鳥居の向こうに楼閣、本殿があるが、他にも脇社として蛭子神社および稲荷社、弁天池などがある。また、「謡曲生田敦盛」の碑や、地元飲食店や食品間連企業などの寄付で作られた包丁塚、震災復興祈念碑、楠の神木がある。柱に書かれた寄進者名には、ホテルあるいは海洋関係の企業も多い。包丁塚は、1993年(平成5年)10月25日に建立された。境内北側に鎮守の森が広がっており「生田の森」と呼ばれている。
◆生田の森
生田神社境内には、『枕草子』に「森は大荒木の森。…信太の森。生田の森。」と記され、また歌枕としても名高い生田の森があります。この森は、古くは旧生田川あたりまで及ぶ大森林でしたが、周辺地の開発、都市化により大部分は失われ、社殿背後に茂る楠などの老木が、わずかに往時の面影を今に伝えています。この地は山陽道の交通の要衝とともに、生田川をひかえた軍事的な要衝地であったため、源平合戦の戦場となり、室町戦国時代には、楠・新田軍と足利軍の湊川合戦、織田軍と荒木村重軍の花隈城の戦いの舞台となりました。一ノ谷合戦において平家は、生田の森に大手陣をおき、その東側を流れる生田川を城郭の堀とみなし、川に沿って垣や逆茂木などの防衛施設を設け、堀には橋を一つ架けて大手の木戸口(城門)とし、この川を挟んで源平両軍は対峙しました。ここで大奮闘したのが河原兄弟と梶原景時父子です。
・・・グルリと境内をまわって諦めかけた時、カエルが舞い降りました。
★蛭子神社
ヒルコ(水蛭子、蛭子神、蛭子命)は、日本神話に登場する神。『古事記』において国産みの際、イザナギ(伊耶那岐命)とイザナミ(伊耶那美命)との間に生まれた最初の神。しかし、子作りの際に女神であるイザナミから声をかけた事が原因で不具の子に生まれたため、葦の舟に入れられオノゴロ島から流されてしまう。次に生まれたアハシマと共に、二神の子の数には入れないと記されている。『日本書紀』では三貴子(みはしらのうずのみこ)の前に生まれ、必ずしも最初に生まれる神ではない。不具の子に生まれるのも、後で流されるのも同じである。始祖となった男女二柱の神の最初の子が生み損ないになるという神話は世界各地に見られる。流された蛭子神が流れ着いたという伝説は日本各地に残っている。日本沿岸の地域では、漂着物をえびす神として信仰するところが多く、ヒルコがえびす(恵比寿・戎)と習合・同一視されるようになった。ヒルコ(蛭子神、蛭子命)を祭神とする神社は多く、和田神社(神戸市)、西宮神社(兵庫県西宮市)などで祀られている。ヒルコがえびす神である信仰は古今集注解や、芸能などを通じ、広く、浸透している。蛭子と書いて「えびす」と読むくらい馴染みのあるものだが、恵比寿を祭神とする神社には恵比寿=事代主とするところも多い。まだまだ検討が必要だが、生まれてすぐに流されてしまうヒルコへの哀れとの感情が再生の神話をつむいだとも考えられる。
・・・なぜカエルなのかという疑問はありますが、神の使いであるということなのでしょう。また、ここ「生田」は水や田に深いつながりを持つ土地であることも関係していると考えられます。とにもかくにも、関西のカエルファンはぜひお参りに行ってみてください。