・・・この停留所ほど思い出に残っている駅はない。「平野駅」からは「恵美須町」行きと「天王寺」行きがあった。「恵美須町」行きの場合、「天王寺」に行くにはここで乗り換えることになる。ホームに降りたら、急いで道路を横断し「阿倍野駅」までダッシュするのである。子ども心にスリルがあって、今でも忘れられない。
【阿倍野停留所(斎場前)】大阪市阿倍野区阿倍野筋
南海電気鉄道平野線の阿倍野駅は、阿倍野交差点に東南にあった。現在は、大阪市道津守・阿倍野線の道路の一部となっているためか、併用軌道上にあった駅と錯覚してしまうかもしれないが、阿倍野交差点東側の大阪市道津守・阿倍野線は片側一車線で、その南側が南海電気鉄道平野線の専用軌道となっており、同線の阿倍野駅もその専用軌道上にあった。また、南海電気鉄道平野線の阿倍野駅は、南海鉄道上町線との直通運転が開始される頃まで現在の阿倍野図書館・阿倍野区民センターの前にあり、かつて阿倍野斎場(火葬場)があった経緯から、南海電気鉄道上町線の阿倍野駅と区別するため、「斎場前」という副称が廃止されるまで付いていた(交差点の名前も以前は「斎場前」であった)。
・・・「阿倍野」と言えば「体育館」でした。
★大阪市立阿倍野体育館/大阪市阿倍野区阿倍野筋3丁目
昭和31年(1956)に開設してから平成14年(2002)まで使用されていました。平成22年(2010)に解体され、跡地には25階建てマンション「プラウドタワー阿倍野」が建設されました。
【参考】プロボクサー歯科医師黒木正克
昭和30年代の半ばから40年代にかけて歯科医大生でありながらプロボクサーの道を歩んだ北海道北見市出身の黒木正克氏は、ボクサー引退後も歯科医師(黒木歯科医院・箕面市)としてマウスピースの研究などスポーツ歯科の分野でも大いにその経験を生かし貢献をされました。2010年7月12日没。
【参考】大阪市設南霊園
545-0052大阪市阿倍野区阿倍野筋4-19-115/06-6661-5924
当園は明治7年大阪府が開設し、八弘社(明治8年7月~明治40年2月)を経て明治40年2月大阪市が(買収)引継ぎ、現在に至ります。この間、阪神高速道路建設のため一部移転しましたが、現在61,319㎡の敷地に約13,700基の墓石が建立され、多くの方のお参りがあります。また、大阪市の南の玄関口天王寺・阿倍野のターミナルから徒歩で約15分の交通至便の場所に立地し、著名人の墓石も多く墓参者も一年を通して途切れることも無く、都心の中の安らぎの空間を形成しております。
・・・千日墓地から移設された石像のようです。
●無縁堂
市内5ヶ所の市立斎場で火葬され、遺族の引取りがなかった遺骨をお祀りしています。毎年秋のお彼岸には慰霊祭を行っています。
江戸時代には千日前に刑場・墓地・火葬場がありましたが、明治3(1870)年にこれらは廃止されることになり、明治7~8年にかけて、市内の三ヶ所にまとめられました。天王寺村埋葬地(阿倍野斎場)は明治7(1874)年に完成して、千日前にあった墓地などがここに移されました。明治40年に大阪市が買収し、昭和5年には阿倍野葬儀所、18年には市立南斎場と改称されました。五代友厚の墓、長州藩志士の墓(死節群士之墓)などが有名で現在は、財団法人大阪市環境事業協会が管理する大阪市設南霊園となっており、また、以前は同地に阿倍野斎場(火葬場・火葬所)もあったのですが、斎場のほうは平野区の瓜破霊園の斎場に統合されて現在はありません。
★上方演芸発祥之地「てんのじ村記念碑」/大阪市西成区山王1丁目
【碑文】仏法最初、荒陵山四天王寺に由来する天王 寺村は、また文化芸能淵叢の地でもあった。往昔、北は生国魂より南は天神森紹鴎社に及ぶ広大な地域を占めていたといわれる。現在の通称「てんのじ村」は、まさにその中心の地に当たる。昭和二十年の戦災に奇しくも大被害を免れて芸能人の大半はこの地に結集、爾後、上方庶民の文化、演芸の再建、飛躍の拠点となった。今回、都市計画による地区改変に際し、縁故芸能人、地元有志ほか江湖の賛助を得てここに記念の碑を建立し事蹟を顕彰するとともに向後のより大なる発展を庶幾せんとするものである。昭和五十二年十一月八日・吉田留三郎識
・・・ここからは西は、「恵美須町」行きの領域になります。