・・・さらに「神馬塚」の横に、
★うどんや風一夜薬本舗
546-0035大阪市東住吉区山坂1-11-2/0120-12-1893
戦前派ならいざ知らず、かぜ薬に『うどん屋』と付いているのを不思議に思う人も多いのではないでしょうか。このかぜ薬、生まれは明治九年の大阪。かぜの早期治療には、アツアツのうどんを食べ、この薬を飲んで、一晩ぐっすり眠ることが養生の基本であるという考えから、うどん屋で売られていました。当時の大阪には、至る所にうどん屋さんがあり、まさに庶民のファーストフードでもあったわけです。ですので、風邪を引くとうどんやさんに駆け込んでカゼを治すこの方法が、浪花の文化として、全国に広がりました。また、『うどんや風一夜薬』が俳句の季語であったということを、以前、落語家で人間国宝の桂米朝さんにお伺い致しました。アツアツのうどんは、消化がよく体が温まるばかりか、当時は化学調味料等がございませんので、出汁そのものも栄養満点。じっくり暖まって、カゼ薬を飲んで一晩ぐっすり休むと,少々のかぜは治ってしまうと大評判で、やがて、全国に広まったのです。『うどんや』にある『風(かぜ)』が『一夜』で治るお『薬』。これが薬の名称の由来で、私どもがうどん屋であったわけではなく、あくまでも、薬を置かせていただいているロケーションを示したもので、創業以来130有余年、うどんは一度も作ったことがないというのが、弊社の歴史でもございます。もうひとつ面白いのは,当時、東京では同じ薬が『そばや風一夜薬』と名前を変えて売られていたことでしょう。大阪では『うどん』東京では『そば』思わぬところで、西と東の違いが発見できます。この薬、壺井栄の名著『二十四の瞳』にも登場しています。
以下、HPをご覧ください。
【文ノ里停留場】大阪市阿倍野区文の里2丁目
現在の大阪市阿倍野区文の里2丁目・昭和町1丁目の境界付近、文の里商店街の入口近くにあった。千鳥式配置の単式2面2線のホームを設置していた。この近辺は天王寺土地株式会社が住宅地として開発し、また同社は駅を建設して南海鉄道に寄付した。同社は、付近に学校が多くあることから駅名を「文ノ里」と命名した。その後駅名にあやかり、1951年には駅周辺の住居表示も「文の里」と改称された。出札窓口、ラッチを備えた、平野線の中間駅唯一の駅員配置駅だった。多くの乗降客に対応すべく、ホームは、幅は広くゆったりしており、2輌連結運転に対応した長さであった。その後、阪神高速14号松原線工事に伴う線路移設によりホームも移設した。用地の関係上、下りホームは幅が狭くなってしまったが、朝のラッシュに備える必要のある上りホームは、旧来の幅をほぼ保ち移設された。ただし上下のホーム共、長さは1輌分に短縮された。合理化の一環として、上町線のワンマン化と共に1976年に無人駅化された。ラッチは撤去され、出札口が塞がれた。また、平野線の中間駅では唯一、保線用の詰め所(平野管理班)が併設されており、営業廃止まで活用された。
★「南海平野線と文ノ里停留場」
南海平野線や文ノ里停留場の歴史を記した記念看板が建てられています。地元の文の里商店街の要望を受け、南海電鉄が設置したものです。
・・・このような看板が設置されているのは、「文ノ里」だけです。
◆日本基督教団「南大阪教会」
545-0021大阪市阿倍野区阪南町1-30-5/06-6622-2011
南大阪教会は1926年に設立され、2年後に現在地に建物を建築しました。その3年後には地域の子どもたちの教育のために南大阪幼稚園を設立しました。幼稚園は第二次世界大戦中から戦後の一時期をのぞいて休むことなく、現在まで地域の幼児教育の一翼を担ってきました。教会も設立以後、周辺地域からたくさんの人たちが集まってくるようになり、設立後6年には100名以上の信仰者を生みだすようになりました。第二次世界大戦中は、他のキリスト教会同様に人々が集まるのに困難な経験を致しました。この時の経験から、教会は平和を願う思いを強くもつようになりました。戦後は、民主主義に基づいて自由になった社会のなかで、心からの自由を宣べ伝える教会にさらにたくさんの人たちが集まるようになりました。また教会員が社会的国際的な奉仕活動に積極的にかかわり、参加するようになりました。1970年には現在「別館」とよばれている幼稚園園舎・教育館・伝道師住居を建築しました。1981年には、新しい会堂を建てました。戦前の会堂は老朽化すると同時に収容能力が限界に達したため、新しい建物が必要とされたからです。この時、塔は修復して残されました。この塔は現在でも大阪の貴重な近代建築の一つとして雑誌などに紹介されています。1996年に創立70周年を迎え、それを記念して1999年に、『南大阪教会70年誌』を出版し、2001年にはその姉妹版として『南大阪教会に生きた人びと』を出版しました。21世紀に入り、さらに多様化する社会のなかでさまざまの人々をお迎えできる教会として成長し、いくぶんかでも人間性豊かな地域社会づくりに貢献できるようにと願っているところです。
★日本基督球団南大阪教会「塔屋」は、建築家・村野藤吾(1891‐1984)の設計によるものです。
【苗代田停留場】大阪市阿倍野区松崎町4丁目
庚申街道と交差する踏切を挟んで西側に平野方面行きホームが、東側に阿倍野・今池方面ホームがあった。文ノ里停留場方面から当駅にかけては、平野線の中間駅間では随一の勾配区間であり、朝のラッシュ時には、満員の電車が喘ぐかのように坂を登ってきたという。現在、鉄道の遺構は何も残っていない。しかし、踏切の東側の形状の喫茶店は、ほぼ当時のままである。
◆阿倍野「苗代田」郵便局
545-0021大阪市阿倍野区阪南町1-12-31/06-6629-1628
・・・唯一「苗代田」の名前が残っているのは、この郵便局だけです。