南海平野線跡を行く(3) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・「桃ケ池」と「股ケ池」、私はやっぱり「股」ですね。


池停留場大阪市阿倍野区桃ケ池町1丁目7番地および文の里4丁目25番地

国鉄阪和線との立体交差の北側の袂にあった。平野線廃止時は、踏切を挟み、2面2線千鳥配列で、北側に下り(平野方面)、南側に上りのホームがそれぞれ設置されていた。元々、平野線開業時は、両方のホームが向かい合わせの対向式だったが、昭和のはじめ頃上りホームが移設された。この移設されたホームが、平野線廃止まで使われており、阪和線の高架橋(前身の阪和電鉄が建設したもの)と併せて、戦前の風景そのまま残すものであった。平野線が廃止された後は、関連する構造物はすべて撤去された。また、平野線が潜っていた、阪和線の高架橋も2004年(平成16年)から2006年(平成18年)にかけて行われた線路付け替えにより取り壊されてしまい、往時を感じさせるものはなくなってしまっている。



もも1


桃ケ池公園/大阪市阿倍野区桃ケ池町1丁目

池は古くから「ももがいけ」と呼ばれていたが、かつては「百ヶ池」「脛ヶ池」「股ヶ池」とも表記された。名称については、池がいくつもあるため百ヶ池という説や、池の形が股引のような形になっていることに由来するという説や、聖徳太子の使いが大蛇退治をした際水深が腿程度だったためなどの説がある。江戸時代には「百ヶ池」の表記が見え、明治大正頃には「股ヶ池」が定着していたが、昭和年に市が整備し、都市計画公園として開園するにあたり、字が分かりにくいなどの理由でに同じ発音の「桃」の字をあてた「桃ヶ池」の表記とし、以後それが定着した。なおその後も大正時代より近くを走っていた南海平野線の駅名は股ヶ池停留場であり、公園内にある神社は「股ヶ池明神」の表記のままとなっている。明治大正年間までは、近隣は農村地帯であり、灌漑用に使われた他、鯉や鮒の養殖が行われ、ウナギやナマズが特産であったという。阿倍野区昭和町、阪南町は大正末より昭和初期にかけて、市によって長屋建築を都市計画として行い整備されたが、桃ヶ池地域においても長屋建築を斡旋し、その名残の住宅地が公園内に多く残る。大阪市はその後桃ヶ池を整備し1933年10月25日に桃ヶ池公園として開園した。この桃ヶ池公園は、都市計画に基づく区画整理で完成した公園としては、日本初のものである。



もも2


股ヶ池明神

桃ヶ池にまつわる伝説として、「桃ヶ池に棲んでいた大蛇を聖徳太子が退治した」という内容が伝えられている。その際、股ヶ池浮島に穴を掘り大蛇の死体を埋葬したが、その後も怪異が続くというので霊を沈めるため「おろち塚」が作られ、昭和初期まで残っていたとされる。桃ヶ池公園に隣接して設置されている「股ヶ池明神」は、天明年間(1780年代)に角田某という人物が、夢に出た蛇霊を奉るために、おろち塚の北一丁の位置に丸高竜王、丸長竜王として祭ったことが起源と伝わる。これら伝承を信じるならば、おろち塚は股ヶ池明神の南に109m(1丁=60間=109m)にあったということになる。おろち塚の位置=埋葬した浮島かははっきりしないが、現在地元で「蛇島」と呼ばれている中央の島がその場である可能性がある。股ヶ池明神は神仏習合の様相を色濃く残す神社であり、不動明王や地蔵菩薩、さらには内部には聖徳太子、弘法大師も祀られている。 地下の不動明王が祀られている箇所は上部より水が流れ落ちる構造が作られており、小規模ながら滝行のようなものが過去行われていた様子がある。神社本庁には属する正式な神社ではなく、地域住民により維持管理されてきている。かつて、NHK大阪制作による連続テレビ小説『てっぱん』において、ロケ地となり、劇中に登場するシーンがある。


・・・狭い境内にギッシリつまったユニークな神社です。


もも3


【参考】田辺古墳群

池周辺は古代より集落であったと考えられ、阪和線の高架工事の際に弥生時代の遺跡が発掘されたり、近隣のマンション工事の際に弥生遺跡が出たことがある。近辺は田辺古墳群といい、古文献にはこのあたりに古墳が多くあるとの記述もあり、事実近隣の山坂神社も古墳であることが近年分かってきた。そのような古い土地柄のため、旧石器時代から江戸時代まで、近隣でさまざまな時代の遺構が出ている。


・・・さらに池全面にギッシリびっしりと生えているハスは、圧巻です。


もも4


桃ケ池公園市民活動センター

545-0012大阪市阿倍野区桃ケ池町1-13-406-6628-9045

掲示板に様々な情報が張り出されています。


もも5


神馬塚大阪市東住吉区山坂1

住吉大社は、壱岐・対馬や北九州を発祥地とする航海の神様です。誉田別皇子(ホンダッワケノミコ:応神天皇)のご生誕にも関わり、神功皇后の軍事政策の成功から、その直系の王朝である仲哀-応神-仁徳-履中の4代は、河内に巨大な古墳を築き、道路や堤および港湾の建設を実行しました。国勢が飛躍的な進歩を遂げたことに伴って、住吉大社も大阪(摂津国)に進出し、民間の信仰も相まって社運は隆盛を極め、奈良時代には多くの広大な社有地を保有していたようです。そのような次第で、神事をつかさどる神馬(白馬:アオウマ)も神功皇后の時代から、大和王朝の寄進があったようで、文献的には白河上皇の寄進が確認されています。その後は皇室の威信が武士(将軍)に替わり、頼朝の寄進が確認されています。また、神馬の飼育は土師氏が神功皇后の軍政に功があった経緯から、当田辺の基礎を築いた同族の田辺氏とその子孫が相伝して、担当していました。しかし、江戸時代の住吉信仰はむしろ民間により支えられ、神馬の寄進は当時財力が旺盛であった木炭の協同組合によって、維持されていたようです。なお、神馬の飼育や没後の管理は伝統的に田辺郷の住人に任され、その厩舎は「性應寺」の北東隅と、「北田辺郵便局」の北隣にあったとされますが、現在その地は共に駐車場になっています。飼育は北と南にそれぞれ3名の舎人(トネリ)が任命されていたが、男子系の一子相伝のために、次第にその後継者が減少し、明治の末期には橘忠三郎一家のみとなっていました。神馬の遺骨(たてがみ)は山坂1-11にある「うどんやかぜ一夜本舗」の西側、JR阪和線に沿った一角に、末廣氏によっ丁重に現在も祀られています。


・・・「桃ケ池公園」のすぐ横にあります。