南海平野線跡を行く(2) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・「中野鍼灸院」は伝統文化そのものです。次の時代に、どのように受け継がれていくのでしょうか。



はり1


・・・ここまで来たのですから、近鉄「針中野駅」へ。


はり2


・・・さらに、大阪市内では残っているのが珍しい古墳へ。


酒君塚古墳/大阪市東住吉区鷹合2-5(酒君塚公園内)

東住吉区東部にある鷹合・桑津・山坂の一帯には、かって大きな古墳群があったことが、江戸時代の地籍図や古墳にまつわる伝承などから推定されています。駒川上流右岸にある鷹合の酒君(さけきみ)塚古墳は、近年の発掘調査によって、現在の墳丘の盛土下に、かって平塚と呼ばれた長径35m以上、高さ2m前後の古墳の墳丘が確認されました。さらに、出土した円筒埴輪から築造時期は四世紀末で、田辺古墳群では最も古い古墳であることも明らかになりました。酒君塚古墳(平塚)は、御勝山古墳に次ぐクラスの平野川に至る駒川・今川水系の首長墓であり、田辺古墳群の被葬者の頂点に立った倭王権とも関わりの深い人物であったとされています。酒君については「日本書紀」の仁徳天皇四三年の条に、「依網屯倉阿弭古(よさみのみやけあびこ)が、不思議な鳥を捕まえて天皇にさしあげたところ、天皇はその鳥が鷹であることを知られ、百済王の一族である酒君に命じて鷹を養わせた。」とあります。

はり3


駒川町停留場大阪市東住吉区駒川町

現在の東住吉区駒川3丁目、阪神高速14号松原線の高架下にある、駒川文化センター(公民館)東角の交差点を挟むように千鳥配置の棒ホームが2線2面で設置されていた。この場所は、大阪市内有数の駒川商店街に連なる、駒川駅前商店街との接点である。1輌分の少し幅広のホームと上屋だけであったが、開業当時のものが路線廃止まで残っていた。現在は、交差点の場所の位置自体は変わっていないが、鉄道の遺構は何もない。商店街で当時から営業している商店もわずかに残っている


・・・遺構はなくとも、とにかくイメージしながらひたすら歩く。

田辺停留場東住吉区田辺

現在の大阪市営地下鉄谷町線田辺停留場から200メートルほど南東の場所、東住吉区田辺5丁目・6丁目の境界付近にあった。近鉄南大阪線今川駅方面からの商店街と、南海平野線の交点に位置し、踏切を挟んで、5丁目側に下り平野行ホーム、6丁目(厳密にいうと田辺2丁目。平野線は丁目界を走っていたので、踏切が3つの丁目の接点だった)側に上り今池方面行ホームが千鳥配列で設置されていた。2両連結運転に備える長いホーム+1両分の上屋という設備と、当駅発着列車があったためか、平野線中間駅には珍しい渡り線があった。阪神高速道路の工事開始にともない、今池方面のホームは、原型を留めながらもホームが削り取られ1両分になっていたが、平野行ホームは営業廃止まで2両分のホームだった。渡り線は、後年には非常時ぐらいにしか利用されていなかった。かつて恵美須町駅にあった行灯式行先案内表示灯にはほとんど使われていなかった『天神ノ森』とともに『田辺』の表示があった。線路・ホームの跡は阪神高速14号松原線の側道となっており、往時の鉄道の遺構はほとんど見られないが、下りホーム脇の喫茶店や、大衆食堂等は、往時の雰囲気そのままで現在も営業をしている。また、上りホーム対面の地表には、南海電鉄の境界杭が残されている。なお、阪神高速14号松原線高架下、東側の側道は、南海平野線の線路跡をほぼ忠実にトレースしており、この田辺停留場跡に限らず、沿線跡を歩くといくつか境界杭が残っているのを目にすることができる。


はり4


・・・たんなる「思い出」ではすまない「忘れてはならない」事実があり、個人ではなく「後世」にきちんと「伝えていかなければならない」ことがあります。


はり5


模擬原子爆弾投下跡地之碑大阪市東住吉区田辺1-6-7

太平洋戦争終結1ヶ月前に、アメリカが世界初の原子爆弾の実験に成功し、日本に投下する前に、原爆を放出した後の爆撃機の退避訓練を必要としました。さもなくば、投下後の爆発に、自らも被爆する恐れがあったからです。実際に原爆投下をしたB29は、当時の戦闘機並みの急旋回(155度)をして、爆心地の上空から退避したのでした。 ズングリした4.8トンの原爆と同型で、同重量のTNT爆弾(パンプキン:南京型爆弾)が投下練習と投下後の退避訓練のために116発も試作され、49発が日本国内に投下されました。その内の1発が昭和20年7月26日に田辺2-3の田辺小学校の外側、北西の一角に投下され、その跡地に石碑が建立されています。アメリカには、「国家機密でも後の歴史研究者の批判に資するために、50年経過すれば公開される」という法規定があるので、この模擬原爆投下実験の詳細が日本人の目に留まったのです。これによると、投下実験の結果や天候条件、飛行機の操縦法等が克明に記録され、搭乗員にとって、最も安全で確実な投下方法が確立されたのです。この49発の模擬原子爆弾の投下によって、死者400名、負傷者1200名を数えるに至る、かくれた原爆犠牲者があったのです。なお、この爆弾は一般の爆弾に比較して効率が悪く実戦に使えないことから、戦後は残りのすべてをテニアン島沖の海中に投棄されました。


・・・「負の遺産」も大切にしていきたいものです。