南海平野線跡を行く(1) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・。近くにありすぎて、気がついた時には「すでに遅し」。南海「平野駅」隣に生まれ、育った私のルーツを巡る旅でもあります。まずは、駅名にもなった「中野鍼灸院」をめざします。


「桑津今川堤跡」の石碑/大阪市東住吉区中野三丁目5川原橋東詰

江戸時代今川に沿う堤には、約kmに渡って「はぜ」が植えられていた。紅葉の季節には、ちょうど平野大念仏寺への道筋にもあたり名物の「桑津のしんこ餅」の売店が並び賑わった。ここで一息つく老人たちが、嫁の悪口を言い合ったところから「嫁そしり堤」ともよばれていた。なおこの付近は「平等堤」の名もあったが(現在、平等橋の名が残る)、これはこの辺一帯の杭全(くまた)庄が、一時期、名目上の宇治平等院領となったことによるという。

今川緑道南港通り南側

平等橋を北上し、南港通と交差する川原橋までの250m程の間は、桜並木とユキヤナギが美しいところです。国道25号線との交差手前にある水門までの北側の緑道(2.1km)とは、南港通で分断されて、並木の様子も異なっています。北側の堤では、戦前は漆並木が有名でしたが、南側の堤は松並木でした。この堤は冬には大阪湾の風が定常的に東向きに吹いていたので、松並木を背にして、東向きに多くの子供・大人達が凧揚げに夢中になった場所です。


なかの1


中野停留場大阪市東住吉区中野通

現在の阪神高速14号松原線沿いの、大阪市営バス針中野1丁目バス停(平野線運行当時は中野駅前バス停)脇の高架下の公園が、当駅の上りホーム(今池方面行)の跡地である。公園の西端の交差点を挟んで、北側に下り(平野行)ホームが千鳥配置されていた。上りホームは、阪神高速道路の工事が始まり、若干移設されたが、下りホームは開業当時のホームが、ほぼそのままの趣きで営業廃止まで使用された。隣の駒川町停留場から当駅の区間にかけて、阪神高速道路の高架脚が、2本で跨ぐタイプから1本脚になる部分がある。よく見ると、その1本脚は中心が少しずれており、長めに腕が出ている方が、平野線軌道上だった名残である。これは、阿倍野方面からここまで、阪神高速道路の高架に寄り添ってきた平野線の軌道が、高架の下に潜った部分を示す。阪神高速工事中・工事完了後の当駅~西平野間は、高架道路の真下を電車が走った(再び高架脚は2本で軌道を跨ぐ形になる)。鉄道高架ではないとはいえ、営業中の鉄道路線で直上高架工事が施工された例である。阪神高速14号松原線の地下には、大阪市営地下鉄谷町線が走る。南海平野線の廃止と、谷町線の代替区間の営業開始は同じ日だったので、1980年(昭和55年)11月27日の1日に限り、地下鉄、地上の平野線、そして高架に高速道路が同時に存在・営業したことになる。旧「中野村」域に所在したため(明治期の合併により開業時は「南百済村」に所在)。中野の地名は、平安時代から今も続く「中野小児鍼」で古くから知られており、その後開通した近鉄南大阪線「針中野駅」の駅名の由来ともなった。現在も針中野2丁目に、鍼への道と当駅への分岐を示す道標が残る。石の道標には、平野線開業の4月に、当時の院長が建立したと思われる文字が刻まれている。



なかの2


中井神社大阪市東住吉区針中野2-3-58

地下鉄駒川中野駅の少し南西に南港通りから南西に曲流した細い道がある。一説に駒川と今川の中を流れていた「西除天堂(道)川」跡といわれている。その東方の四天王寺への参詣道「庚申街道」沿いに中井神社がある。

御祭神:素盞嗚尊境内社:白龍社(白龍大神・光蛇大神)、大神宮社(天照大神)由緒:当神社は三代実録に「田辺東の神」として祀られていたと記されていた。古くは「御祭神にちなんで牛頭天王社」と呼ばれていたが、その昔、社前に清水の涌く井戸があり、村人等は、その井戸を「汚れのない霊泉」として大切にしていた。そこで、中野村の井戸がある処のお社として、明治時代の初めに中井神社と改められた。本殿裏側の鳥居前に「万葉集 息長川 顕彰之碑」が建立された。万葉歌に詠まれた「息長(おきなが)川」は伎人郷(喜連)の方から西へ流れ、中井神社の東側で当時の西除川と合流していたという。


なかの3


◆平等橋/大阪市東住吉区中野

昭和の中頃までは、平等橋から東に向かって、現在の常磐会短大(旧巽池と北池)に至る平等堤の西端に当たり、さらに平野に向かう八尾街道(住吉-中野-平野-八尾)の中間点になり、また喜連環濠を水源とする喜連川と今川との合流点でもありましたので、主要街道の交差点や水路の合流点として重要な橋でした。実際に江戸時代中頃に書かれた土橋家文書の中には、平等堤とその北側にあった元平等院の寺領であった字・平等との文字が読みとれ、平等堤がその北側にある平等院の寺領を、喜連川の洪水から守るために構築された堤だと云われていました。しかし今川や喜連川は、江戸中期に「悪水抜」と表記されるような農用と生活廃水の細い水路であり、排水用水路として昭和中頃まで同様な形態で残っていました。しかも、当時の平等橋の南側一帯は一面水田であり、川幅やその水量から見て、到底奈良時代の息長川を想定できるものではありませんが、江戸時代の古伝承を伝える並河誠所や森幸安などは、今川や喜連川が奈良時代には息長川であったとし、東住吉区史も並河誠所の摂津志の記述を認めて、今川が息長川であると表示しています。


なかの4


中野鍼灸院

546-0011大阪市東住吉区針中野3-2-1706-6702-7673

平安時代の延暦(782~805)の頃に設立された、「中野降天鍼療院(ナカノアマクダルハリヤ)」がその屋号です。平安時代から一子相伝を守り、男児が恵まれない時は、女性も当主としての鍼灸術を習得して、現在に至っています。43代目中野一氏の言によれば、以下のような長期にわたる経歴がわかります。初代の治平氏は延暦20年(801)生まれ、平安初期に弘法大師が布教の途上、当家に宿を借りたお礼として、当時最も進歩した鍼術とつぼを示す「遂穴偶像(スイケツグウゾウ)」(大人と小人の丈1m弱の木像)と金針を授与されとのことです。その木像は現在も中野家に伝えられています。3代目主禮氏は年度が不明ですが、旧暦満月の8月15日に開業されたので、「月見の鍼(はり)」と呼ばれ、今もその治療に訪れる人が多いといわれています。


なかの5


南北朝の頃に、足利軍の戦火により屋敷を焼失したが、大師伝授の木像2体と鍼と漢方薬書が残り、今日に至っているとのことです。宝暦13年(1763)発行の摂津平野大絵図にも、中野村小児鍼師と記されています。明治の頃、第41代目新吉氏は医師の資格を取得された上で、西洋医学を取り入れて独自の鍼法を築かれたので、近畿一円から「中野鍼まいり」として、一日500人以上の人々が殺到し、屋敷内に遠路の来館者を泊める宿舎も建てられていました。大正3年に南海平野線が開通した時には、中野駅から鍼院まで7ケ所の道辻に石の道標が建てられました。南海平野線が廃線された以降、現在も旧中野駅跡地に道標が残されています。大正時代に中野家41代目が大阪鉄道(現近鉄南大阪線)の開通に尽力し、そのお礼として大正12年の開通時には最寄りの駅名を「針中野」としたといわれています。現在も駅名が継続され、地名となって残っています。当時では珍しく遠くから見えた3階建ての塔屋敷は、老朽化したために昭和50年に取り壊されました。