・・・あまり期待してなかっただけに、展示物の素晴らしさに驚きました。これは、ミュージアムです。平野界隈で発掘された文化財をはじめとして、
※馬場組「だんじり」=大阪型。4代目。明治12年(1879)制作の幕地車を22年三枚板に改造。さらに昭和59年に彫物と2本の柱以外を大改修。大工は住吉「大佐」と云われているが、「大佐請取帳」には記載が無い。大正9年?に「大佐」で見送り幕を三枚板に改修したのが間違って伝わったか?。彫師は彫又一門?。昭和59年に吉為工務店による改修の時に取り替えられた彫物は、「平野区画整理記念会館」で展示されています。
※江戸時代から河内木綿の産地として全国に広く知れわたり、木製の綿くり機・糸つむぎなど多くの製作機の展示等があります。
★摂州平野大絵図
徳川家康が、平野商人の末吉孫左衛門吉安に命じて、元和元年(1615年)の大坂の役(夏の陣)で兵火に遇った町を整備させ、町割が整った後の宝暦13年(1763年)に描かれたものです。絵図には、「古名ノ杭全荘、広野荘、平野荘ヲ今ハ平野郷町ト云フ」と書かれています。
平野郷には、三つの街道が交差していました。奈良街道(平野郷から西は大坂道で、東は大和道)、八尾街道(平野郷から西は住吉街道で、東は河内信貴道)、中高野街道(平野郷から北は玉造天満街道で、南は高野道)です。
江戸時代の平野郷町は七町(七丁)から成立し、田畑を除く郷の市街部を環壕で囲み、三街道と通じる13カ所に木戸口(平野郷十三口)を設け、門の傍に門番屋敷も置いて、街道に出入りする通行人の荷物検査などを行っていたようです。市町の北から流町へ縦貫する街道が中高野街道、泥堂から野堂へ横切る街道が奈良街道、背戸口から野堂の東を横切る街道が八尾街道(野堂側出入口は奈良街道と共用)です。平野郷の範囲は、広義の解釈では、平野郷町(本郷という)+現在東住吉区の新在家(現在名は杭全:くまた)、今在家(現在名は今川)、中野、今林、の四散郷が含まれます。喜連村との境界は、平野郷内の辰巳池から多目的の水路が西側の今川まで掘削され、掘削した土砂で「平等堤」が築かれて領地の境界線になってました。
この堤が喜連村(西喜連村・中喜連村・東喜連村)にも掛かっているところから、水路の領有権を巡って南隣の喜連村と争ったことがあります。明治22年に全国の自治体に市町村制が実施され、明治元年からの野堂の表示は大阪府住吉郡平野野堂町という住所表示でしたが、明治22年からは、大阪府住吉郡平野郷町大字野堂になりました。明治29年に住吉郡が東成郡に編入された時の野堂の住所表示は、大阪府東成郡平野郷町大字野堂でした。大正14年に平野郷町と喜連村は大阪市に編入されて平野郷町の名は消え、大阪市住吉区平野○○や平野○○町になりました。その時の野堂の表示は、大阪市住吉区平野京町や平野新町、平野三十歩町、平野梅ヶ枝町、平野政所町などという名前になっています。旧平野郷地区の2012年の現在名は、大阪市平野区平野本町、平野区平野元町、平野区平野上町、平野区平野宮町、平野区平野市町、平野区平野東、平野区平野南、平野区流町、平野区背戸口、平野区西脇、平野区平野馬場、平野北になります。判りやすく言うと、毎年7月11日~14日までこの町内で開催される、平野郷夏まつり(杭全神社例祭)で、9町のだんじりが曳行される区域が平野郷になります。
・・・古地図の産物のところに「中野村小児鍼師」と書かれていましたので、さらに西へ「中野」へ。この外灯も古い物のようです。
●今川改修の碑/大阪市東住吉区中野3丁目
江戸時代今川に沿う堤には、約4kmにわたって「はぜ」が植えられていた。平野の大念仏寺への道筋にあたり、名物「桑津のしんこ餅」の売店が軒を並べ賑わっていたと云う。ここで一息つく老人たちが嫁の悪口を言い合ったところから「嫁そしり堤」とも呼ばれた。なお、この付近は「平等堤」の名もあった。この辺一帯の杭全庄が一時期、名目上の宇治平等院領となったことによると云う。昭和29年に改修工事が完成したのを記念して建てられた。この少し北方で鳴戸川と分流している。南港通り北側の緑道は、南側よりも9倍も長い桜並木です。戦前は漆並木で有名な「漆堤」の名称がありました。正徳5年(1715)付け城蓮寺村の堤奉行宛恐書の中に、「うるし堤」の美しさを述べる文言があるので、その頃に既に漆が広く植えられていたことがわかります。しかし、戦前の今川に残されていた漆は僅かなもので、西除川沿いにある矢田7丁目の阿麻美許曽神社や松原市の布忍神社境内や、駒川沿いの鷹合神社境内にも川沿いに漆の木が植えられていたことが確認できるので、漆は地場産業として、また川堤の補強策としても、今川堤に限らず、広く植えられていたことが分かります。今川の本漆は、戦中の燃料不足に困った住人達が堤の樹木を盗伐し、漆にまで手を付けたので、その全てが消滅しましたが、今も、一部では漆を植えているところもあり、昔年の紅葉を楽しませてくれます。ただ、現在川沿いの所々に見られる櫨の木は漆と似ていますが、樹液を分泌せず、造膜性や刺激性がなく、異なった性質の樹木です。
◆今川緑道
今川堤の緑道に、北は抗全2丁目から南は中野3丁目迄、およそ2キロにわたって花の説明版が建てられています。同じ形のものを含めて15基ありました。石に組み込まれているものと、地面に据え置かれたものがあり、中には夏草に覆われて姿を隠し、草刈りの際に初めてその存在にきづかされるものもあります。緑道に植えられた花々を紹介し、それにまつわる花言葉や、草花を使った遊び方などが解説され、訪れる人達を楽しませています。春ともなると川沿いに桜が一斉に咲き誇り、その見事さに、花見の名所として近年多くの人々が訪れています。「鳰鳥(にほどり)の息長川(おきなががわ)は 絶えぬとも 君に語らむ 言尽(ことつ)きめやも」この和歌は奈良時代の天平勝宝八年(756年)の春に、喜連の長者であった馬史国人(うまのふひと くにひと)が詠んだ一首で万葉集に記載されています。ここで歌われている息長川とは近江の天野川と言われてきましたが、実は東住吉区の今川ではないかとも考えられています。