末吉船(4) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・確認のため、以前の画像をもう一度見直しています。


ねん1


二条城清流園

創建時(家康の時代)の二条城北部清流園地区は洛中洛外図屏風などから城内通路と天守閣の一部が存在していたと推定されます。しかし、寛永元年(1624)~同3年(1626)(家光の時代)にかけての二条城増改築の折、天守閣は淀城に移築されて空地となりました。寛永11年(1634)以降、同心(幕府の役人)の住まいが建造され、幕末まで建造物群があったことが確認できます(但し、一時天明の大火で焼失)。同心らの住まいは明治前期に撤去されたと考えられ、緑地に整備されたと思われます。大正4年(1915)には大正天皇即位式饗宴の儀の会場として利用され、饗宴施設等が増築されました。翌大正5年(1916)より城内の復旧工事が行われ、饗宴施設の一部は岡崎桜の馬場(現在の京都会館付近)へ移築撤去され、その跡地を有名な造園家小川治兵衛氏によって疎林式庭園に復旧されました。昭和25年(1950)進駐軍の意向によりテニスコートに転用され、その後、昭和40年(1965)に清流園が造営され、現在に至っています。この庭園は河原町二条にあった旧角倉了以の屋敷の一部、庭石、庭木等を無償で譲りうけ、更に全国から集めた銘石、篤志家より寄贈を受けたものなどを用い、昭和40年(1965)完成しました。庭園は当時の高山義三市長によって「清流園」と命名され、東半分が芝生を敷き詰めた洋風庭園、西半分は二棟の建物を含めた池泉回遊式山水園(和風庭園)からなる和洋折衷庭園で、観賞するだけでなく実用的な庭となっております。


・・・気まぐれに、思いつきでいろんなミュージアムなどを巡っていますが、このように不思議につながっていくので、二度も三度も楽しめます。


ねん2


・・・「日本銀行京都支店」、代目営業所への移転後、代目営業所跡地には京都府京都文化博物館が建設され、銀行の建物は別館として【辰野金吾建築は大切にいかされています。


ねん3


・・・脱線ばかりですが、再び「清水寺」にもどってきました。


◆地主神社

605-0862京都府京都市東山区清水1-317075-541-2097

大国主命を主祭神として、父母神の素戔嗚命・奇稲田姫命、奇稲田姫命の父母神の足摩乳命・手摩乳命を正殿に、大田大神(芸能と長寿の神)、乙羽竜神(旅行・交通安全の神)、思兼大神(知恵と才能の神)を相殿に祀る。ただし「地主神社」という社名から、本来は当地の地主神を祀る神社であるとする説もある。社伝によれば、地主神社の創建年代は、神代つまり日本の建国以前とされ、あまりの古さにその歴史は明らかではありませんでした。しかし近年、アメリカの原子物理学者・ボースト博士の研究により、本殿前の「恋占いの石」が縄文時代の遺物であることが証明されました。また地主神社の鎮座する辺りは、古来「名勝蓬莱山(宝来山)」と呼ばれ、不老長寿の霊山として信仰を集めてきました。京都盆地が湖であった古代から、この蓬莱山は陸地であり、信仰の場となっていたのです。811年(弘仁2年)、嵯峨天皇が行幸。地主桜の美しさに三度車を返され、「御車返しの桜」の由来となりました。970年(天禄元年)、円融天皇が行幸。 臨時祭を仰せつかりました。1082年(永保2年)には白河天皇が行幸、17日間参籠(神社で昼夜にこもっての祈願)されました。これら歴代天皇の行幸も、地主神社の歴史とご神威の貴さを物語っています。1886年(明治19年)、建都1100年を奉祝して当神社に奉納された絵馬には、当時の風俗と共に、良縁祈願に訪れる娘さん達の様子が生き生きと描かれています。身分・性別を問わず、広範な人々から信仰を集めていたのが、地主神社の信仰の特色と言えるでしょう。



地主桜が有名で、1本の木に一重八重の花が同時に開花する。弘仁2年(811)嵯峨天皇行幸の際、あまりのうつくしさに、三度御車を返してご覧になった故事でも知られ、別名「御車返しの桜」とも呼ばれている。地主桜、「田村」「熊野(ゆや)」など、多くの能・謡曲に「地主権現の花」と謡われている



ねん4


田村:坂上田村麻呂と清水寺縁起

能「田村」は、坂上田村麻呂を主人公にして、清水寺創建の縁起物語と田村麻呂の蝦夷征伐を描いた作品である。観音の霊力によって敵を蹴散らす武将の勇猛さがテーマとなっており、明るく祝祭的な雰囲気に満ちた作品である。屋島、箙とともに、三大勝修羅とされ、祝言の能としても演じられてきた。坂上田村麻呂は奈良時代末期に活躍した武人。その功績については、改めて語るまでもあるまい。平安時代以降、武人の鏡として尊敬を集め、多くの伝説を生んだ。清水寺の創建もその一つといえるが、これには史実の裏づけがある。今昔物語集巻十一や扶桑略記によれば、清水寺は、宝亀十一年(780)坂上田村麻呂が創建したことになっている。田村麻呂は妻の病気の薬になるという鹿の血を求めて、音羽山に入り込んだ際、そこで修行中の僧延鎮に出会い、殺生を戒められた。田村麻呂はそれを機に仏に帰依してこの寺を創建したという。延鎮はもと大和国子島寺の僧侶であったが、夢のお告げに従って音羽山に入り、そこで何百年も修行しているという行叡居士と出会う。行叡居士は、後を延鎮に託して去り、延鎮は行叡居士の残していった霊木に観音の像を掘り込んで祀った。これが清水寺のそもそもの由来なのであるとされている。

能では、清水寺の創建を大同二年(806)、延鎮を賢心としているが、筋においては、今昔物語集などの記するところとおおむね異ならない。構成は複式夢幻能の体裁。前段は清水寺創建の縁起物語、後段は坂上田村麻呂の蝦夷征伐の戦いぶりが描かれている。前段では童子の姿となった田村麻呂の幽霊が登場し、後段では若々しい武将姿の田村麻呂が勇壮な舞を運ずる。なお、この能の作者については、世阿弥の作とする説や、世阿弥以前の作品に世阿弥が手を加えたとする説などがあるが、真偽は明らかでない。


ねん5


・・・これまで「能・狂言」に興味を抱けませんでしたが、ぜひ「田村」を観てみたいと思います。そう思えただけでも「清水寺」に来た甲斐があったということです。