・・・この高さは、やっぱり足がすくみます。
★渡海船額(絵馬)
清水寺にある江戸時代初作の重要文化財絵画。貿易商人が東南アジアとの貿易の成功を感謝して奉納した。【角倉船】図一面、【末吉船】図三面がある。風俗史の資料としても貴重、非公開です。
・・・角倉さんについてもしらべなければなりません。
【参考】角倉了以(1554~1614)
京都嵯峨の出身で、その生涯はほぼ徳川家康と重なっている。角倉家は代々医術を本業としていたが、その傍ら土倉つまり質屋も営んでいた。了以は祖父の企業家精神と、医者であった父の科学的精神をうけて、医業は弟に譲り自分は土倉経営を中心に家業を発展させ、海外貿易でも文禄元年(1592)豊臣秀吉の朱印船に加わり、安南国(今のベトナム)と貿易して莫大な富を得たようだ。家康が江戸幕府を開いて3年後に、京都の西を流れる保津川(大堰川)開掘の願書を出し、30数キロ上流から嵯峨までの舟運に関する権利を得た。そして、開削を始めて6カ月後には竣工させている。その工事に当たっては人任せでなく、自ら石割斧を振るって仕事にあたったと言われる。史料「前橋旧蔵聞書・六」等々によると、保津峡の開削の成功によって搬送船が嵯峨に着き、大堰川開削により丹波地方の農作物は旧倍して運ばれはじめ、嵯峨近辺は商人の往来が多くなり発展したと記録されている。材木は筏で運送され、険しい山道を人馬で物資を搬送していた頃に比べれば、その利便は格段の差を生じた事が伺える。角倉家は、莫大な資金を投じて開削したが、開削後の水運による収益をすべて独占する事で、さらなる利益を得たと考えられる。通船の技術導入に当たっては、行舟術にすぐれた舟夫18人を了以が嵯峨に招いて、新しい水運への対応をした。舟夫の止宿先は嵯峨の弘源寺で、後にこれらの船夫を嵯峨に定住させ、大雄寺の荒れ地を開拓し、ここに舟夫の居住地を作った。そこには今でも角倉の地名が残っている。(現在の京都市右京区嵯峨角倉町あたり)。他にも了以が行った通船のための河川疎通事業としては、富士川・天龍川・高瀬川等の開削がある。中でも、了以の名が今日にまで残る事になったのは、晩年に開削した同じ京都の高瀬川の開削である。方広寺大仏殿再建のための資材輸送を命じられていた了以は、淀川の上流で調達した木材を筏にくみ、使用許可を取っていた鴨川を遡って京の三条まで運び込んだ。この時、鴨川を遡る事が難しいことを知った了以は、京と伏見の間に運河を造る事を考え、高瀬川の開削計画を立てたと言われる。工事は三次に分けて行われた。第一次は慶長16年(1611)から開始され、慶長19年に完成した。水がいつも濁らぬよう、樋門や汚水抜きの溝なども配置してあり、この計画が非常に優秀なものであった事がわかる。了以は商人としても偉大だったが、土木技師としても優れていたのだ。高瀬川開発には、了以の息子素庵(そあん)も協力した。開発には7万5千両(150億円)を費やしたとされるが、了以は運河航行には通行料を徴収しており、当時の通行料は、・幕府納入金1貫文、・舟の維持費250文、角倉家手間賃1貫250文となっていて、一回の船賃が合計2貫500文となり、これから計算すると、角倉家に年々納められる金額は1万両を超えたと思われ、その経済的利益は莫大であったことがわかる。勿論通航費を支払っても、人馬で物資を運ぶより採算性がすぐれていたから、江戸年間を通じて利用された続けた事は言うまでもない。了以は、高瀬川の完成を見届けたかのように、竣工した慶長19年7月17日、61才の生涯を閉じている。京都洛西の「二尊院」に角倉了以の墓がある。
・・・私がはじめて「角倉了以」の名前を知ったのは、
★がんこ「お屋敷・高瀬川二条苑」
604-0922京都市中京区木屋町通二条下ル東生洲町484-6/075-223-3456
1611年(慶長16年)、高瀬川開削者である豪商角倉了以がその源流に建設した別邸跡にある日本庭園である。高瀬川源流庭苑とも呼ばれる。庭園の一角には、江戸時代初期に小堀遠州により作られた茶庭が現存する。明治時代になって、元勲山県有朋が当地に第二無鄰菴と称される別邸を建設した。このときに庭園は、無鄰菴を作庭した小川治兵衛により改修され、現在に至っている。山県以降は、日本銀行総裁川田小一郎、総理大臣阿部信行らが当地に別邸を構えていた。現在は日本料理レストラン「がんこ高瀬川二条苑」となっている。
・・・「がんこ」の向かい側にあるのが、
◆【島津製作所創業記念資料館】◆
604-0921京都市中京区木屋町二条南/075-255-0980
当資料館は創業の地にあり、木造2階建ての建物は、創業者の初代の島津源蔵が居住し、約45年間、本店として使用したもので、いわば島津製作所の源流です。館内には、創業以来、製造販売してきた理化学器械、医療用X線装置や産業機器をはじめ事業活動に関連する歴史的な文献・資料などを常設展示し、島津製作所の歩みと日本の近代科学技術の発展過程がご覧いただけます。平成23年4月、創業135年を記念してリニューアルをし、ストーリ・テーマに沿った展示、創業当時の雰囲気とその歴史を感じていただけるような空間へと生まれ変わりました。
・・・「島津」の南隣にあるのが、
◆日本銀行京都支店
604-0924京都市中京区河原町通二条下ル一之船入町535
一之船入近くに角倉家の邸宅がありました。現在は日本銀行京都支店の敷地にあたります。角倉氏はいくつか邸宅を持っていましたが、ここが最大規模といわれ、邸内の庭園は鴨川から水を引き込み、噴水もあったと伝わります。この付近の町名は「一之船入町」。高瀬川を開削し川の管理者でもあった角倉氏はここに邸宅を構えて高瀬舟の航行を監視したといいます。嵐山にも保津川開削のときの邸宅があり、現在は料亭になっています。
【参考】2代目営業所は、日本銀行本店や東京駅を手がけた【辰野金吾】博士とその弟子・長野宇平治氏の設計により2年10ヶ月の歳月を費やして建築されたもので、明治39年6月に完成した。この建物は、白いラインを利かせた格調の高い赤レンガ造り二階建ての優美かつ重厚堅固なもので、現在も明治期の典型的な洋風建築物として評価が高く、国の重要文化財に指定されている。3代目営業所への移転後、2代目営業所跡地には【京都府京都文化博物館】が建設されたが、営業所の建物は別館としてそのまま残されている。
明治から大正、そして昭和へと時代が遷り変わるにつれ、事務量はもとより職員も増加して2代目営業所も手狭になった。また、2代目営業所の位置していた三条高倉は古くからの問屋街で、周辺道路は幅員が狭いところに路上駐車が認められていた。営業所開設から四半世紀が経ち、自動車の交通量が増えてくると、現金輸送用トラックが円滑に出入りできなくなる惧れもあった。こうした事情から営業所を移転することとなったが、候補地となったのは「史跡高瀬川一之船入の北に隣接した旧織殿(おりどの)跡」と「二条城北東角の幼稚園、少年補導所」 の2か所である。結局、市内有数の観光名所である二条城に隣接する場所は観光シーズンに道路混雑が生ずると考えられたので、旧織殿跡が3代目営業所として選定された。旧織殿とは明治初期の官営織物工場のことで、染殿(染色技術の研究・教育機関)・ 舎密(せいみ)局(化学の実験・教育機関)とともに明治時代における京都産業革命の原動力となった。また、ここにあった庭園は小堀遠州流の池泉回遊式庭園として名高く、その建物の一部は江戸中期の作として由緒あるものであったので、営業所の新築着工に先立ち二条城内に移設復元し、現在、【清流園】として保存されている。
・・・なんと、そんなことも知らずに以前「二条城・清流園」でお茶していたなんて、今さらながら驚きです。