・・・年老いた母もいっしょなので、ゆっくりゆっくり坂を上ります。それが清水坂の楽しさです。
・・・やっぱり「カエル」を見つけるとうれしいですね。
◆清水寺
605-0862京都市東山区清水1丁目294/075-551-1234
音羽山清水寺は、宝亀9年(778)に奈良子島寺の賢心、後の延鎮上人によって開創されました。「清水寺縁起」によると、賢心は「木津川の北流に清泉を求めて行け」という霊夢をうけ、翌朝、霊夢にしたがい清泉をもとめて上がると、音羽山麓にある滝にたどり着きました。するとそのほとりで草庵をむすび、永年練行をしている行叡居士(と出会ったのです。行叡居士は賢心に霊木(れいぼく)を授け、千手観音像を奉刻し観音霊地を護持するよう遺命を託すや否や、姿を消してしまいました。「行叡居士は観音の化身である」と悟った賢心は、以後固く遺命を守り、千手観音を刻んで草庵と観音霊地の山を守っていました。
・・・東日本大震災から3年半ほどたちますが、新たな認識が大切だと思います。先日も先輩から、陸前高田に作品を送ったとの連絡をいただいたところです。私も何か新しい取り組みを考えたいと思います。
その2年後の宝亀11年(780)、【坂上田村麻呂】公が妻室・三善高子命婦の安産のため、夏の暑い日に鹿を求め音羽山に上がってこられました。そしてひと筋の水の流れを見つけ、そのあまりの美しさに、水源を求めて歩みを進めるうちに草庵にたどり着き、賢心と出会いました。坂上田村麻呂公は賢心に鹿狩りに上山した旨を話すと、観音霊地での殺生を戒められ、観世音菩薩の教えを諭されました。深く感銘を受けた坂上田村麻呂公は、この賢心が説かれた清滝の霊験、観世音菩薩の功徳を妻室に語り聴かせ、共々深く仏法に帰依されました。そして後日、自らの邸宅を仏殿に寄進し、十一面千手観世音菩薩を御本尊として安置されました。清水寺はその後、霊験あらたかな観音霊場としてさらに広く信仰を得てきました。「枕草子」「源氏物語」といった古典文学をはじめ、能狂言や歌舞伎、落語などにも数多く登場するなど、貴族や武士といった限られた階級だけでなく、庶民にも開かれたお寺として親しまれてきたのです。開創以来、1200有余年の間、幾度もの災害戦災にあいながら、その都度、再建・復興を果たしてきたのも、人々の信仰の篤さのたまもの。現在の伽藍は、徳川三代将軍家光により寛永10年(1633)に再建されたもので、平成6年(1994)にユネスコの世界文化遺産に登録されました。
★清水寺【田村堂(開山堂)】
江戸時代初期の1633年(寛永10年)に再建された、正面及び奥行き三間、入母屋造、桧皮葺きのお堂で、国の重要文化財に指定されています。柱と軒は丹塗り、柱と軒の間にある組物は極彩色仕上げとなっています。また正面壁面には蔀戸(しとみど)が吊るされています。開山堂の内部には、開放形の厨子(重要文化財)があり、厨子の中に坂上田村麻呂夫妻像(清水寺創建の本願主)が安置され、その向かって左に行叡(清水寺元祖)と延鎮(清水寺開山)の像が祀られています。普段は非公開です。
※坂上田村麻呂公坐
2009年3月1日~5月31日、100年ぶりに特別開扉されました。
※黄蒼朱白玄(こうそうしゅはくげん)
平安時代に初代の征夷大将軍坂上田村麻呂が本堂を寄進したことから清水寺の本願主として、この開山堂に祀られています。大陸から仏教建築がもたらされたとき、すべての建造物は腐食防止と荘厳のため、このように彩色されていました。顔料は黄土、緑青、丹土(につち)、白土、漆などを用いますが、それぞれの色から「黄蒼朱白玄」といいます。しかし、わが国では華美な装飾は好まれなかったのか、多くの建造物は、いつしかもとの素木造に戻っていったのです。仏教建築は修復が繰り返されていますが、老朽化した際に腐食防止のため真っ先に行うべき塗装がやり直しがなされなかったのは、明らかに意図的なものと考えられます。華美な装飾を避け、木そのものの美しさを尊び、自然との調和を考え誇張しない簡素さを旨とすることが、日本人の建築観かも知れません。江戸時代再建ですが、高い切り石積の基壇に建ち、軒の反りが少ないのは、古代の仏堂であることを示しています。
・・・さあ、「清水の舞台」です。