末吉船(1) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・百貨店つながりで「天満橋」までやって来て、【八軒家浜】で大川を見ながら古に思いをはせていると、まさしく「水の都」であったことを実感する。そして、まぎれもなく【平野郷】も「水の都」として発展してきたのだと確信したのです。


はち1


八軒家浜

古くは大江の岸と呼ばれ四天王寺や住吉大社、熊野参詣のための上陸地として重要な機能を果たしてきた。江戸時代には京都伏見との間を三十石船が行き来する船着き場として、澱川両岸一覧(文久元[1861]年)に見るように昼夜を問わず人々が行き交うターミナルであった。

淀川両岸一覧

江戸時代に描かれた「淀川両岸一覧」は、文・暁 晴翁、絵・松川半山によるもので、年号でいえば文久の頃(1861~1863)に、江戸の山城屋、京都の俵屋、大阪の河内屋を版元として出版された。上り船(上)・上り船(下)・下り船(上)・下り船(下)の四冊からなる、いわば旅行案内記である。当時の淀川の風情を今に伝える貴重な資料としての価値はもちろんのこと、有名無名の俳人、文人の言葉を適所に引用し、読む者を飽きさせない編集は、当時の出版文化の水準の高さを示すものである。


はち2


・・・「八軒家」については、熊野街道の起点として街道巡りプログで紹介してきましたが、「水の都」そして「平野郷」との深い関係から捉え直してみたいと思います。


◆末吉氏

摂津国平野庄の開発領主で、坂上田村麻呂の次男坂上広野の曾孫で秋田城介権守の坂上行松が平野行増と名のったといわれ、平野氏の祖となったと伝わる。末吉氏はその平野氏の末裔といわれ、安土桃山時代の豪商である時の平野氏の当主平野隼人正利吉の弟平野勘兵衛利方が豊臣秀吉から末吉と名のるように言われたことから始まった。平野の地における坂上一族は、坂上氏を中心として、庶家の平野氏から平野七名家と称する家が現れ、番頭格の家として坂上氏を支えた。末吉氏はその平野七名家の筆頭の家柄を誇り、平野七名家が平野の自治権を掌握し、末吉氏は絶大な権勢を振い平野郷の発展に寄与した。

末吉氏は豪商で、慶長6年(1601年)に設けられた伏見銀座の年寄りを勘兵衛と子の孫左衛門が歴任した。また、航海業を営み、豊臣秀吉や徳川家康から朱印状を与えられ、朱印船貿易で巨万の富を得たという。平野勘兵衛利方の子の末吉孫左衛門吉康はルソンにまで朱印船としての末吉船を派遣し海外との貿易にも活躍する。それらの功により幕府代官としての支配地も5万石となる。末吉利安の後も、末吉勘兵衛長方、勘兵衛長明、末吉孫左衛門利長らがルソンからインドシナまで航海業を拡大した。江戸時代に末吉氏は、東末吉家(末吉勘兵衛家)、西末吉家(末吉孫左衛門家)に分かれたが、両末吉家の子孫は江戸時代を通じて繁栄し、現在も平野の地に現存している。


・・・末吉さんは、もちろん「平野郷」を拠点とされていたわけですが、商いという面では外国ともつながっている人です。まずは大坂であり、京都にも頻繁に行き来されていたことでしょう。ということは、この「八軒家」が重要なターミナルであったと考えるのが自然だち思うわけです。


はち3


伏見・銀座町

関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、日本国内の覇権を意識し、慶長6年5月(1601年)、京都伏見の伏見城下に貨幣鋳造所を設立し、堺の両替商、湯浅作兵衛に命じて取り仕切らせ、頭役には、摂津国住吉郡平野郷(大阪市平野区)の豪商の末吉氏の末吉利方(平野(末吉)勘兵衛利方)と子の末吉吉康(吉安)(末吉孫左衛門吉康)や同族の平野藤次郎、平野九右衛門らがなる。極印方の湯浅作兵衛は徳川家より大黒常是(だいこくじょうぜ)という姓名を与えられ、これ以降大黒常是家は鋳造された銀貨に「常是」の略号を刻印して銀貨の極印・包装を担当した。このため、銀座で出された銀貨の包みを常是包と呼んだ。大黒常是および銀座人らは町屋敷四町を拝領して両替町と称し、銀座会所と座人の家宅と常是吹所が建てられた。この各地銀座所在地に付けられた両替町という名称は諸国の銀山より産出される灰吹銀を、銀座が公鋳の丁銀を以って買い入れることを南鐐替(なんりょうがえ)と称したことに由来し、銀座人らは一種の両替商でもあった。江戸幕府の中枢が移るに従い駿府にも銀座が設けられ、さらに慶長13年(1608年)に伏見銀座は京両替町、続いて駿河銀座は慶長17年(1612年)に江戸新両替町に銀座の貨幣鋳造機能は全て移された。

伏見銀座跡

伏見大手筋商店街のアーケードに東から入ってすぐの交差点、買い物客らが行き交う道の脇にひっそりと立つ。十八センチ四方、高さ約一メートルの石碑には「此付近伏見銀座跡」と刻まれ、ここが全国各地の「銀座」のルーツであることを伝える。側面に「昭和四十五年三月 京都市」とある。伏見観光協会と市の連名の立て看板に、詳細が記してある。銀座とは繁華街のことではなく、江戸幕府直轄の銀貨鋳造所。関ケ原の戦いに勝利した直後の徳川家康の指示で設けられ、一帯には会所や有力商人の座人の屋敷などが建ち並んだ、という。「物流を盛んにするため、銀の品質を統一する必要があった」と、近くにある御香宮神社の三木善則宮司。「伏見城下として発展した政治、経済の拠点であり、京にも近いこの地を銀座に適した場所として選んだのでは」と話す。その後、銀座は別の場所に移り、伏見銀座は廃止されたが、地名にその跡を残す。石碑のそばに植えられた木は、東京の銀座から贈られたものだ、という。

大手筋商店街

大手筋という語源は古く、豊臣秀吉の時代までさかのぼります。文禄三年(1594年)、秀吉は伏見城建築により大手広庭を形成、そこに大手門を築きそれより少し曲がって西方に道を作ったのが大手筋通りです。伏見城に出入りする一番重要な道であったわけです。記録としては享保十三年(1728年)作成の紀伊郡伏見御城図に「大手広庭の前、大手筋通りと云う」と書かれています。

末吉孫左衛門(1570年1617年5月1日)

江戸時代初期に朱印船貿易で活躍した大坂の大商人。名は吉安(吉康)。出家後は同円。京都・伏見の銀座の頭取の平野勘兵衛利方、後の末吉利方の長男に生まれた。大坂で豪商となって徳川家康から朱印状を受ける。同時期に朱印状を受けた商人としては荒木宗太郎や角倉了以らがいる。末吉船とよばれる大船を仕立てて、インドシナ・フィリピンなど南洋方面に出かけて貿易をした。大坂の陣には家康のために働き、平野、河内など郡の代官となった。

江戸幕府の「鎖国」政策の進展により、幕府公認の朱印船の海外渡航すら難しくなり、1633年老中奉書船以外の海外渡航や帰国を禁止する第1次鎖国令が発令され、1635年にはすべての日本人の東南アジア方面への海外渡航と帰国を禁止する第3次鎖国令が発令されて朱印船貿易は終末を迎えた。この措置によって東南アジアで朱印船と競合することが多かったオランダ東インド会社が莫大な利益を得、結局は欧州諸国としては唯一、出島貿易を独占することになる。

坂上氏

坂上氏系図によれば坂上直姓の初代は東漢氏の坂上直志努。東漢氏は後漢霊帝の後裔と称し、応神天皇の時代に百済から日本に帰化した阿智王(阿知使主)を祖とすると伝わる。本拠地は大和国添上郡坂上である。坂上志努の子の一人である坂上駒子の子が坂上弓束で、坂上首名、老、大国、犬養、そして坂上苅田麻呂と続き、坂上田村麻呂にたどり着く。駒子から苅田麻呂までの歴代の事跡はある程度明らかに伝わっている。判明しているのは、坂上老、坂上国麻呂が壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)方として活躍した事と坂上犬養が聖武天皇に武才を認められ武人の一歩を踏み出した事である。

田村麻呂以降の坂上氏の動向であるが、田村麻呂には坂上大野、坂上広野、坂上浄野、坂上正野、そして桓武天皇の后だった坂上春子らの多数の子がいたと伝わっているが、坂上氏宗家の家督を継いだのは摂津国住吉郡平野庄(大阪市平野区)の領主となった坂上大野だった。しかし大野は早世し、弟の坂上広野が平野庄と坂上氏の家督を継ぐ。その後広野も早死にしたため、その弟の坂上浄野が跡を継いだ。浄野の次の坂上当道は、田村麻呂以来の東北経営と父あるいは伯父の広野(当道は浄野の子とも広野の子ともされている)にはじまる平野庄の経営に携り、子の坂上好蔭は武人として東北で活躍するが、その子の坂上是則、孫の坂上望城は歌人として名をなし、その子孫は代々、京都の検非違使庁に出仕し明法博士や検非違使大尉を継承した。

広野の子(当道が広野の子なら当道の兄)の坂上峯雄は侍従として都にあったが、孫の坂上峯益も曾孫の坂上行松も東北経営と都での任に就いている。当道の後の平野庄の経営については、坂上氏の氏寺の長寶寺記によれば坂上行松が継いだとされる。

坂上行松(坂上行増)を祖とする平野氏(長寶寺寺記、末吉氏家譜)から末吉家をはじめとする平野七名家が登場し、宗家の平野庄の坂上氏を支え、代々「民部」を称し、堺と並ぶ中世の自治都市の平野を担った。宗家の坂上氏は、代々、京都の公家との姻戚関係を維持し、明治時代に東京に移るまでは長寶寺の近くに構えた屋敷に住んでいた。平野七名家は江戸時代は幕府の代官となり万石を支配地とする。その後、東末吉家(末吉勘兵衛家)、西末吉家(末吉孫左衛門家)に分かれた末吉氏の子孫は、現在も平野の地に現存。

坂上田村麻呂

天平宝字2年(758年)に坂上苅田麻呂の次男(「坂上氏系図」)または三男(「田邑麻呂伝記」)として生まれた。中央で近衛府の武官として立ち、793年に陸奥国の蝦夷に対する戦争で大伴弟麻呂を補佐する副将軍の一人として功績を上げた。弟麻呂の後任として征夷大将軍になって総指揮をとり、801年に敵対する蝦夷を降した。802年に胆沢城、803年に志波城を築いた。810年の薬子の変では平城上皇の脱出を阻止する働きをした。平安時代を通じて優れた武人として尊崇され、後代に様々な伝説を生み、文の菅原道真と、武の坂上田村麻呂は、文武のシンボル的存在とされた。

坂上氏は渡来人である阿知使主の子孫であり、田村麻呂の祖父の犬養、と苅田麻呂ともに武をもって知られた。子に大野、広野、浄野、正野、滋野、継野、継雄、広雄、高雄、高岡、高道、春子がいた。春子は桓武天皇の妃で葛井親王を産んだ。滋野、継野、継雄、高雄、高岡は「坂上氏系図」にのみ見え、地方に住んで後世の武士のような字(滋野の「安達五郎」など)を名乗ったことになっており、後世付け加えられた可能性がある。子孫は京都にあって明法博士や検非違使大尉に任命された。

戦功によって昇進し、延暦24年(805年)には参議に列した。大同元年(806年)に中納言、弘仁元年(810年)に大納言になった。この間、大同2年(807年)には右近衛大将に任じられた。また、田村麻呂は京都の清水寺を創建したと伝えられる。史実と考えられているが、詳しい事情は様々な伝説があって定かでない。他には806年(大同元年)に平城天皇の命により富士山本宮浅間大社を創建している。

平城上皇と嵯峨天皇が対立したとき、田村麻呂は上皇によって平城遷都のための造宮使に任じられた。しかし薬子の変では嵯峨天皇側についた。子の広野は近江国の関を封鎖するために派遣され、田村麻呂は美濃道を通って上皇を邀撃する任を与えられた。このとき田村麻呂は、身柄を拘束されていた文室綿麻呂を伴うことを願い、許された。平城京から出発した上皇は東国に出て兵を募る予定だったが、大和国添上郡越田村で進路を遮られたことを知り、平城京に戻って出家した。弘仁2年(811年)5月23日に54歳で病死した。嵯峨天皇は哀んで一日政務をとらず、田村麻呂をたたえる漢詩を作った。死後従二位を贈られた。墓所は京都市山科区の西野山古墓と推定される、また山科区勧修小学校の北側に「坂上田村麻呂の墓」との石碑があり周辺は公園として整備されている。そのほか東山ドライブウェイの展望台側に青蓮院将軍塚大日堂が有る。


・・・「平野郷」をより深く知るためには、「京都」にも行かなくてはならないようです。