百貨店(5) | すくらんぶるアートヴィレッジ

すくらんぶるアートヴィレッジ

●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●

◆高島屋東別館

556-0005大阪市浪速区日本橋3-5-2506-6632-9102

旧松坂屋大阪店として、昭和初期に建設され「東洋一の百貨店建築」とも称された。昭和41年、松坂屋が天満橋へと移転。それに伴って建物は高島屋に譲渡された。現在は主に事務所としての使用されており、高島屋法人事業部や、ショッピングセンター開発を手がける東神開発関西事業部などが入居。3階には高島屋資料館があり美術作品などが展示されている。NHKの朝の連続テレビ小説「カーネーション」の「心斎橋百貨店」ロケ地として使用された。ドラマのモデルとなった小篠綾子さんが実際に制服を売り込んだのは高島屋岸和田店だという。当時、心斎橋に実際にあった百貨店は「大丸心斎橋店」「そごう心斎橋本店(閉館:現在は大丸心斎橋店北館)」。



べつ1


◆【高島屋史料館】◆

高島屋史料館は株式会社設立50周年記念事業の一環として昭和45年に創設いたしました。以来明治初期から京都画壇の巨匠、50余名の文化勲章受章作家を中心に日本を代表する美術家の名品、18世紀の能装束、百選会・上品会の着物など約5,000点の作品が収蔵されています。一方、高島屋のマスコットであるローズちゃん人形をはじめ、歴史的価値の高い戦前のポスター、その他社史、専門書など約15,000点の諸資料も所蔵しており、所蔵品の文化的価値は日本のみならず海外においても高く評価されています。


・・・現在の企画展は、



8月25日(月)~10月21日(火)

【企画展示室】墨色の世界-南画家 河邊青蘭と泥谷文景-/秋色の世界

髙島屋に縁ある作家の作品の中から、秋をテーマに鮮やかな色の世界を展示いたします。深まり行く秋の郷愁をお楽しみください。

江戸末期、中国より日本に伝来した南宗画から、日本独自のものとして発展した「南画」。明治維新以降、新しい絵画形態が求められる中、大正期には全盛を迎えました。今回は大正から昭和にかけて、大阪で活躍した女流画家・河邊青蘭、髙島屋とも交流の深かった泥谷文景の作品による心落ち着かせる南画の世界を、髙島屋での歴史とともにご紹介します。


べつ3


高島屋創業150年記念「ファミリー」作:富永直樹

東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻科塑像部首席卒業。同研究科卒業。1974年(昭和49年)日本芸術院会員に任命。1984年(昭和59年)に文化功労者、勲三等瑞宝章受章。1989年(平成元年)に文化勲章受章。1990年(平成2年)長崎名誉県民顕彰。日展理事、理事長を歴任。その後、日展顧問となる。1997年、新宿区名誉区民。代表作品として文部大臣賞を受賞した「平和の叫び」(1968年)、「トーマス・ブレーク・グラバー之像」(1961年)などがある。また現在トッパン・フォームズ株式会社のエントランスには「青春の賛歌」が置かれている。また、沖電気工業の工業意匠顧問としても活躍し、黒電話4号機の意匠を手がけたほか、日本初のカラー電話、家具調テレビなどのデザインも行った。



べつ4


【参考】復興のシンボル「4号形電話機沖電気工業株式会社

国土の大半が焼け野原となった戦後日本。復興への第一歩はライフラインの回復にありました。OKIは壊滅的な被害を受けた電話の復旧に奔走します。資材難という悪条件と闘いながら、電話機ならびに電話交換機の生産を再開。「復興のシンボル」といわれた4号形電話機の開発においても大きな役割を担います。

戦災による電話施設の被害はまさに壊滅的でした。特に主要都市における加入者の戦災率は、原爆が投下された広島の100%を筆頭に、東京87%、横浜99%、大阪89%といったありさま。戦災を免れた電話の方が奇跡的でした。このことが明治以来、常に我が国の電話事業を最前線で担ってきたOKIの使命感を駆り立てました。芝浦工場の復旧工事と同時進行させる形で電話機の生産をスタート。終戦翌年の1946年(昭和21年)1月には、早くも磁石式電話機500台を逓信院に納入し、電話復興の先駆けを築きました。そこには多くの苦労も伴いました。資材難のため、戦時中の臨時規格品や代用品を使う以外に方法がなく、熟練した技術をもってしても故障などのトラブルに見舞われました。工場では毎週2回、不良対策会議を開き、材料の検査、設計変更などを実施。検討を繰り返すことで悪条件と闘ったのです。戦後の電話復興は資材不足、設備の不備、電力不足などを背景に、拙速主義を取らざるを得ず、十分な品質を担保できませんでした。そこで復旧から復興へ向けて、新しい電話機へのニーズが顕著になっていきます。

電話の復旧と足並みを揃えるように、終戦の翌年には当時の逓信院電気試験所が、新形電話機の開発計画を発表しました。このプロジェクトには、OKIを含めた国内メーカー4社が参画(後に6社で試作機を開発)。共同開発は、特許を含めて、各社が工場や製造技術も相互に公開しながら試作を行うという、異例の全面協力体制が組まれます。そこには、戦後復興のためのインフラをより強固にすべきというビジョンと、日本の電話機を世界のトップレベルに昇華させたいという強い思いが込められていました。

このプロセスを得て産声を上げたのが、「復興のシンボル」ともいわれた4号形電話機です。3号形電話機の通話音声は、キンキンとした明瞭度の悪い「電話声」で、戦後は材質の低下もあり「聞こえにくい電話機」というイメージが定着していました。

新形電話機は、「通話品質の向上」を最優先に、送話機と受話器の改良に重点を置いて開発。その結果、1933年(昭和8年)に採用されて以来、主流となっていた3号形電話機と比較して、30倍もの感度を実現したのです。その後いくつかの試行錯誤を経て、1948年(昭和23年)8月に目標を達成する4号形電話機の試作に成功。ここに初めて、世界水準を凌駕する国産電話機の見通しが立ったのです。

4号形電話機は、デザインも流線型の斬新なものでした。これはOKIの工業意匠顧問であった富永直樹の手によるもので、設計思想は長く、安心して使える電話機。独特な筐体デザインは、生産性や壊れにくさを十分に考慮した結果でした。

4号形電話機は1949年(昭和24年)に各社共同による現場試験用の量産体制に突入します。OKIでは全社動員体制に基づく「4号電話機推進部」を設置し、万全を期した体制で臨みました。ちなみに1949年(昭和24年)に、OKIは企業再建整備法に基づき沖電気を解散し、第二会社・沖電気工業株式会社を設立しています。4号形電話機の量産試作はその翌年のこと。新生OKIはまさに電話機トップメーカーとしての命運と誇りをかけて、開発・製造に取り組みました。

4号形電話機は各メーカーが量産し、1963年(昭和38年)まで電信電話公社の発注のもとに、約400万台が生産されます。その中でOKIの生産台数はおよそ150万台。部品は各社の分担だったにもかかわらず、全部品の自社製造も行うなど電話機トップメーカーとしての確かな存在感をここに示したのです。

なお、4号形電話機は「赤電話」の呼び名で親しまれた公衆電話の元祖でもあります。当初電話は黒色でしたが、1953年(昭和28年)8月に店先で目立つようにとの配慮から、公衆電話専用として赤色に塗布されます。評判は一気に高まり、利用者は急増したといいます。日本のトップメーカーが協力し合い、我が国の電話機技術を世界トップレベルに押し上げた4号形電話機。それは通信機業界における復興のシンボルであるとともに、次の高度経済成長時代の幕開けを予感させるエポックでした。


・・・調べてみると、知らないことだらけです。


べつ5


・・・天満「松坂屋」についても調べてみました。

京阪シティモール(旧松坂屋大阪店)

540-0032大阪市中央区天満橋京町1-106-6944-5088

もともとこの駅ビルには1966年10月1日より松坂屋大阪店が入居していたが、業績回復のために人気テナントの導入や業態転換などさまざまな手段を講じたものの、恒常的な売上不振を理由に2003年10月21日の取締役会において、くずは店とともに閉店することを決定し、翌2004年5月5日をもって閉店した。折りしも建設中の中之島線の起点駅は京阪天満橋駅になることが決定しており、天満橋に新しい商業施設の必要性を感じていた京阪は、松坂屋跡地を「京阪モール」「くずはモール」に続く“3番目のモール”とすることを決定する。当初は松坂屋撤退の半年後(2004年秋頃)をオープン目標としていたが、松坂屋とのビル賃貸借契約が10月まで残っていたため全面改装に取り掛かれず、オープン時期を変更した(ただし、地下2階の食料品売り場は2004年11月25日に先行オープン)。7階にある松坂屋時代からの有力テナント「ジュンク堂書店」「HMV」は一時撤退と伝えられたが、京阪側の説得により残留した(HMVは2010年5月26日に閉店)。現在HMV跡地は、ナムコがアミューズメント施設として出店している(2014年5月6日に閉店が決定している)。建物外観はかなりの老朽化が進んでいたため、白を基調とした外観に一新された。同時に、駅コンコース及びホームの案内看板も他駅に先がけすべて新しくなった。また、エレベーターの部分改修やエスカレーターも新規交換された。2012年1月23日、京阪が京阪シティモールと大阪キャッスルホテルの入居する天満橋駅ビルの建替を検討していると報道された。これは、天満橋駅周辺地域が同1月20日付で都市再生緊急整備地域の指定を受けたためである。ただ、2013年5月から7月にかけ耐震補強工事が行われているため、建て替えについてはほぼ暗礁に乗り上げている状態である。