・・・「御堂筋」ほどではありませんが「なにわ筋」にも素敵な彫刻があります。
●「宮武外骨ゆかりの地」碑
大阪市西区江戸堀2-7/土佐堀通交差点角
近代の風俗研究家である宮武外骨(1867~1955)は、明治34年(1901)から8年間にわたり、この地で「滑稽新聞」を発行した。平成10年3月大阪市建立
宮武外骨は、1867(慶應3)年に香川県綾南町小野に生まれたジャーナリストです。幼名は亀四郎といい、1884(明治17)年に外骨と改名しました。公権力に対して反骨の姿勢を貫き、投獄されたこともあります。当所は東京で活躍し、『頓智協会雑誌』などを刊行して、政府や行政の腐敗を攻撃しました。その後、1900(明治33)年に大阪へ移ってきた外骨は、生地の小野村をもじった小野村夫の名で、1901(明治34)年から8年間にわたり、行政の腐敗を面白おかしく揶揄した『滑稽新聞』を発行しました。滑稽新聞社は、刊行当初は京町堀通4丁目にありましたが、1902(明治35)年に江戸堀南通4丁目、すなわち現在のこのあたちに移転しました。『滑稽新聞』は毎月5日と15日の2回発行され、1909(明治42)年の173号を最後に廃刊となりました。外骨は、東京帝国大学内に明治雑誌新聞文庫を創設するなど、書誌収集の面でも大きな功績を残し、1955(昭和30)年に亡くなりました。大阪市教育委員会
◆「FINDER四角の中の空」/作:AD&A
江戸堀センタービル/550-0002大阪市西区江戸堀2-1-1
◆「弧の仕掛/西風橋」「弧の仕掛/東風橋」作:生形貴春
なにわ筋ツインズウエスト/550-0005大阪市西区西本町2-2-11
錢高組本社ビル(なにわ筋ツインズウエスト)と、向かいのなにわ筋ツインズイースト(辰野西本町ビル)に設置されております、生形貴春氏と株式会社アパ・アソシエイツの共同制作のモニュメント「弧の仕掛/東風橋」「弧の仕掛/西風橋」が、 大阪市より、第7回(1997年)『大阪市都市環境アメニティ賞』のモニュメント表彰を受けました。この賞は大阪市内において屋外に設置され、市民が容易に鑑賞できる作品で都市景観の向上に寄与し、特に企画・デザイン・管理に優れたモニュメントに授与されるものです。
※生形貴春/1948大阪市生まれ1971花園大学文学部日本史学科卒業1996大阪市都市環境アメニティ表彰受章(なにわ筋Twinsに作品設置)
◆「NSストーンズ」作:今井祝雄
なにわ筋SIAビル/550-0013大阪市西区新町2-4-2
※今井祝雄/元成安造形大学教授。1946年、大阪市生まれ。元、具体美術協会会員。1966年、第10回シェル美術賞一等賞受賞。以来、内外の展覧会に出品多数。新大阪駅前や関西文化学術研究都市ほかにパブリックアートを制作、大阪市都市環境アメニティ表彰。
・・・・重要なものを見落としていたことに気づき、急遽「心斎橋」に向かいます。
◆「そごう大阪店」⇒「大丸心斎橋店・北館」
542-0085大阪市中央区心斎橋筋1丁目8番3号
そごう一号店として、旗艦店の役割を果たしていた。昭和10年には「ガラスと大理石の家」をテーマに村野藤吾の設計で8階建ての新社屋を建設しました。シンプルでモダンな新築のストライプの御堂筋側の外壁のアクセントには巨匠ロダンの助手・藤川勇造の巨大な彫刻「飛躍」が置かれ、店内のエレベーターの扉は島野三秋の漆螺鈿装飾が配され、貴賓室扉が奥村霞城の蒔絵で、鶴丸梅吉の天井モザイク、ウィーン工房出身の上野リチの天井ガラスなど、館内の至るところに和を意識した匠の作品が輝いていました。各百貨店では美術部ができて、横山大観や竹内栖鳳、富岡鐵斎などの東西の大家や、地元画家の山内愚倦や北野恒富らの個展も開かれ町の美術館の役目を果たし、画材店や画廊が軒を並べ始めると芸術家が集うようになりました。創業以来そごう発祥の地として180年もの間心斎橋筋商店街で商いを続けてきた自負もあり、その存在は絶大だった。隣接する大丸とは競合関係にあったが互いに切磋琢磨し合い、結果的に心斎橋全体の活性化につなげた。しかしながら、阪急、阪神、近鉄(阿倍野本店)といったターミナル駅併設型店舗の優位性が次第に顕著になり、心斎橋の当店、天満橋の松坂屋(2004年閉店)、北浜の三越(2005年閉店)といった中心市街型店舗は低迷するようになった。かつては同型店舗だったものの、早々にターミナル型へ移行した高島屋、新規出店に踏み切った大丸(梅田店)とは明暗を分け、最終的には株式会社そごうの経営破綻と共に閉店へと追い込まれた。長らく親しまれていた、そごう大阪店の建物は1935年に完成し、アールデコ様式で村野藤吾の設計による。2003年の解体においては、保存の要望や解体の反対運動が起きるなど、その歴史的価値を高く評する者もいた。
2000年12月25日に一旦閉店したそごう大阪店の跡地に、「そごう再生のシンボル」との位置づけで2005年9月7日にそごう心斎橋本店として新装開店した。
当初旧店舗閉店後は三越に売却する予定だったが、親会社・ミレニアムリテイリングの和田繁明社長の提案により「創業の地にそごう再生のシンボル」として売却を撤回した。高級かつ中高年の富裕層をターゲットにした店舗展開を図り開店当初こそ話題となったが、近隣のアメリカ村をはじめとする心斎橋界隈の急速な若年齢層化にも対応しきれず、常に厳しい運営を余儀なくされた。開店後1カ月は200万人の来客があったが、心斎橋本店再開までの5年間のブランクは予想以上にそごう離れを引き起こしており、その後は下降線をたどった。赤字損失の拡大も深刻で、開店から一度も黒字転換することがなかった。
最終的には「再生のシンボル」はそごう大阪店閉店から9年弱、念願の再オープンから4年で創業の地より完全撤退という無念な形での閉店を決断せざるを得なかった。奇しくもそごうが心斎橋で百貨店事業を始めた1919年から90年という節目の年だった。2009年8月19日には「そごう心斎橋本店カウントダウン」と称して閉店までの日数を入口前に表示した。土地および建物は、隣接するJ.フロント リテイリング傘下の大丸に379億1000万円で売却された。建物はそのまま活用され、改装後の2009年11月14日に「大丸心斎橋店・北館」として開店した。14階に併設されていた旧「そごう劇場」は、「大丸心斎橋劇場」と名称を変え、イベント等に使用されている。
【参考】新生「そごう心斎橋本店」は2005年9月7日(水)オープン
心斎橋のランドマークとして、モダニズム精神を伝承する建築を実現
①デザイン体制は,和魂洋才の国際的チーム編成
再生特別区指定を踏まえ、心斎橋復権と新しい大阪を担う建築物を創ることを基本とし、歴史性を踏まえ風格ある街並みの形成、御堂筋沿道における歩道と一体となった敷地内の歩行者空間の確保などに配慮してまいりました。全体の設計施工監理は、㈱竹中工務店が担当いたしました。又、建築~内装までの一貫したデザインコンセプトを実現する上で、米国の商業施設デザインに評価が高い米国キャリソン・アーキテクチャー社をトータルディレクターに据え、竹中工務店、乃村工藝社をはじめ個人で評価されているデザイナーを含めた約30名によって構成してきました。
②外観は、優雅な女性の美しさを表しています
・デザインコンセプトは「フェミニン(優雅な女性美)」、様式は「アールヌーボー」。
・環境のポイントは、エントリーファサード(正面入口)とパサージュ(公開通路)。昼と夕方で併せガラスの銀杏(大阪の木)のモチーフが表情を変える正面エントランス。御堂筋から心斎橋筋に抜ける7メートル幅のパサージュは、贅沢な時間を満喫できます。上層階吹抜けは、伝統と新しいそごうの誕生を、堀木エリ子氏の和紙による巨大モニュメントが表現していきます。
•屋上には「寛ぎの場を象徴する屋上庭園」、大大阪に心斎橋そごう誕生のスピリットを伝承すべく、昭和10年当時の彫像「飛躍(藤川勇造作)」が掲げられます。
★藤川勇造/香川県高松市生まれで、1903年、東京美術学校に入り、1908年に卒業後、渡仏。翌年津田青楓や安井曾太郎を知り、アカデミー・ジュリアンでデッサンを学ぶ一方、<スザンヌ><マリーアントワネット>などの彫刻を制作。後、晩年のロダンにその才能を認められ、ロダンに師事するとともに、その助手を務めた。ロダンに直接師事した日本人は、ただ彼一人であろう。帰国後、1919年二科会の会員として迎えられ、1922年から二科会に出品し活躍した。代表作、1932年<海鳥を射る><Mr.ボース>、1933年<裸>等がある。
・・・百貨店の屋上にあがるなんて何十年ぶりだろう、感動です。