【参考】ある日、豊臣秀吉がお供を従えて市中を巡視した際、町で魚商人たちが「やすい、やすい」と威勢のよい掛け声で売っているのを耳にして、「やす(矢巣)とは靱(矢を入れる道具)」と言ったそうです。そのことにあやかって、靱という町名がつけられたと伝えられています。
※西部方面公園事務所
靱公園をはじめとする西区、此花区、福島区にある公園や樹木などの維持管理、公園内の野球場・運動場の管理運営を行っています。なお、港区と大正区については港・大正公園事務所が担当しています。
※梶井基次郎(1901-02-17~1932-03-24)
大阪生まれの作家。エンジニアを目指して三高に進むが、文学に惹かれるようになり、東京帝大英文科に入学。しかし、少年時代からの肺結核のために卒業はできなかった。初の作品集「檸檬」刊行の翌年に早逝。森鴎外や、志賀直哉などの白樺派、大正期デカダンス、西欧の新しい芸術などの影響を強く受けていると見られ、表立っては新しさを誇示するものではなかったが、それにもかかわらず、梶井の残した短編群は珠玉の名品と称され、世代や個性の違う多くの作家たちから、その魅力を語られ賞讃されている。
◆『はじめての自転車』『変わってきた時代』『姉』/作:J・スワード・ジョンソンJr
1930年生まれ、アメリカのアーティストで、だまし絵的なブロンズ像で知られています。
・・・このような作品がイタズラされずに存在・設置されていることは、文化都市の象徴でもあり、とても嬉しいことです。街は、ミュージアムであるべきだ。
◆「勇者に栄光あれ」/作:大国貞蔵
ギリシャ神話のゼウスの子、メルキュールが天に羽ばたく姿を表わした1924年(大正13年)の作品で1967年に設置されました。寄贈/野村文英
※大国貞蔵/元帝展審査員大国貞蔵は2月11日脳溢血のため芦屋市の自宅で死去した。享年61才。明治23年大阪に生れ大正5年東京美術学校彫刻科を卒業、同年文展初入選以来終始官展に作品を発表し、その間大正9年第2回帝展に「生」が特選、翌年再特選、11年推薦となつた。同年東京平和博覧会彫刻部審査員となり、翌12年第5回帝展審査員を拝命、更に第6回にも審査員に重任され、彫塑界の重鎮として知られた。昭和4年より5年にかけ文部省より嘱託され外遊した。展覧会出品以外の主なる作品に極東選手権競技大会の優勝楯「勝者に栄光あれ」や大阪ビルデイング玄関上部の「少女と鷲」がある。戦後日展出品の「顔」が最終作となつた。大正12年関東大震災以来、関西にあり、大阪近辺の彫塑家の育成に貢献するところがあった。
◆【大坂科学技術館】◆
550-0004大阪市西区靱本町1丁目8-4/06-6441-0915
靱公園の東出口の南隣、五代友厚の屋敷跡に建つ大阪科学技術センタービルの1F-2Fに施設がある。館内は出展企業単位でブースが設けられており、環境技術・資源エネルギー・都市開発・建設技術・生活科学・エレクトロニクス・バイオテクノロジー・地球環境・新素材等それぞれの分野の先端科学技術をゲーム感覚で学ぶことができる、体験参加型の科学館である。1963年に開館した。「てくてくテクノ館」の愛称で、私たちの身近にある生活関連の科学技術を、「新しい素材をさぐる」「楽しい暮らし」「地球をみつめる」「情報・映像」「エネルギー」という5つのコースで、模型やゲームを用いながらわかりやすく紹介している。見学するのに、館内のみの見学・見学と映像鑑賞・見学と講演・見学と実験の4つのコースから選べるが、後の3者は有料。また、3階の「テクノくんの健康くらぶ」では、ロボットで身長・体重・瞬発力などを測定し、基礎体力はもちろん、それをもとに館内をラリーして体力年齢の測定も可能。
・・・いい歳して、ちょっと恥ずかしい部分もあるのですが、大人でも難しいことがいっぱい展示されていて、本当に勉強になります。