イザ!大阪FW(5) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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NTT西日本テレパーク堂島第3ビル大阪市北区堂島3-1-7



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・・・通り過ぎてから、やっぱり気になって詳しく観察すると、


大阪中央電報局跡碑/作:山田守(1927-1966)

昭和2年この地に建設された大阪中央電報局は弧形の屋階をつけたローマ式近代建築で当時は白亜の殿堂または不夜城」とうたわれ、その威容を誇り大阪名所の一つとして市民の衆目を集めたものでした。電信事業合理化のため電報中継機械化を実施することとなり建物の構造上やむなく昭和40年玉江町へ新築移転のこととなりました。ここにかっての雄姿を永く記念するため碑を建立します。昭和45年吉日 日本電信電話公社

山田守(1894年4月19日1966年6月13日)

逓信建築の先駆者的存在、モダニズム建築を実践し、曲面や曲線を用いた個性的、印象的なデザインの作品を残した。岐阜県羽島郡上中島村字長間(現・羽島市)生まれ。上中島小学校、岐阜県立大垣中学校、第四高等学校を経て、1917年、東京帝国大学建築学科入学。1920年、青年建築家のグループ分離派建築会を結成する。同年、同校卒業。逓信省営繕課に入り、電信局・電話局(逓信建築)の設計を行う。東京中央電信局(1925年、現存しない)ではパラボラ型アーチの並ぶ個性的なデザインが注目された。1924年から復興局土木部に所属し、永代橋、聖橋に代表される関東大震災後の震災復興橋梁のデザインを行った。1929年から1930年にかけて、逓信省の命でヨーロッパ視察旅行に出かけベルリンに滞在した。当地では、ヨーロッパ各都市の建築を視察すると共に第二回CIAMに参加。また、ル・コルビュジェ、ヴァルター・グロピウス、エーリヒ・メンデルゾーンらを訪ね、近代建築運動に触れ、大きな影響を受けた。1945年、逓信省退官。同年、逓信建設工業を開設し独立。1949年、山田守建築事務所設立。東海大学の設立に関わり、設立後は東海大学工学部建設工学科教授として後進を指導する。京都タワーでは古都の景観を乱すという批判も受けた。


・・・とても重要なモニュメントで、感激しました。


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大阪国際会議場

530-0005大阪市北区中之島5丁目3-5106-4803-5555

愛称はグランキューブ大阪。設計は黒川紀章によるもので、地上13階、地下3階の鉄骨造である。建物の高さは104.51mある。メインホールは最大2754人の収容が可能で、その他会議室やイベントホールが設けられている。なお、隣のリーガロイヤルホテルとは1階の連絡通路で繋がっており、機能補完が可能である。2000年に日本で開催されるG8サミット(主要国首脳会議)誘致のために、大阪国際貿易センターの跡地に大阪府が建設し、2000年4月に開業した。結果的にサミットは沖縄県で開催される事になったが、2001年に世界観光機関(WTO)総会、2002年の世界水フォーラム、2004年の国際ロータリー大会、2008年6月のサミット財務相会議などの国際会議の会場となった。他にもコンサート、展示会などが開かれている。大阪府と大阪の経済界が出資して設立した第三セクターの株式会社大阪国際会議場が大阪府から運営を委託されている。


てれ3


近代製紙業発祥の地大阪市北区中之島5丁目3-51

この地は江戸時代熊本藩(細川家)蔵屋敷であったが明治になって後藤象二郎が経営する蓬莱社が払い下げをうけ同八年(1875)二月にイギリス製の機械を用いて洋紙の製造をはじめたこれが日本の洋紙製造業の発祥という

(説明板)近代製紙業発祥の地

この地は明治八年(1875)に日本ではじめて洋紙がつくられた場所です。明治四年(1871)大阪の商人平野屋五兵衛がイギリスから洋紙をつくる機械を買ったことがきっかけとなりました。その機械を高知出身の政治家,後藤象二郎が大阪の商人たちとつくった蓬莱社という会社が譲りうけました。もとは熊本藩の蔵屋敷であったこの土地に製紙工場を建てて洋紙をはじめてつくったのです。その後何回か会社の名前がかわりましたが第二次世界大戦のころまでこの地に工場がありました。大阪市教育委員会

【参考】日本における洋紙の製造は一般に王子製紙(創業当時“抄紙会社”)が最初とされ、東京都北区・王子駅前の工場跡地には「洋紙発祥之地」の碑が建っているが実際には有恒社や蓬莱社の方が早く操業を開始している。

有恒社(東京)操業開始1874(明治7)年6月1924(大正13)年 王子製紙に合併

蓬莱社(大阪)操業開始1875(明治8)年2月1928(昭和3)年工場廃止

抄紙会社(東京)操業開始1875(明治8)年12月1893(明治26)年「王子製紙」に改称

碑文に書かれている“蓬莱社”は土佐出身の後藤象二郎(後に大阪府知事逓信大臣などを歴任)が設立した会社だが間もなく資金難のため経営者が交替しさらに真島製紙所・中ノ島製紙・樺太工業・日本製紙・冨士製紙などと所属企業が変化した。



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2008年に開通した京阪中之島線の大江橋駅の中央コンコースに「大坂中之島界隈蔵屋敷跡」があり、各藩の蔵屋敷の位置が掲示されていま


【参考】天王寺公園「長屋門」

旧黒田藩蔵屋敷長屋門は、江戸時代中期の蔵屋敷遺構です。現在の中之島三井ビル付近にあったものを移築したものです。昭和8(1933)年、三井ビル建設に際し大阪市に寄贈され、天王寺公園内に移築されました。

●「木津川橋」顕彰碑/大阪市西区江之子島2丁目

川口と江之子島を結ぶ橋として、慶応4年(1868)に架けられたと考えられる。新政府は同年5月の開港にそなえて、川口運上所(税関)を開設し、居留地の建設を促進した。これにともなって新しい橋も架設されたようである。その後、明治9年9月に橋脚、高欄を鉄製とした橋に変わり、橋面の中央部を車馬道として区割されていたが、この橋が歩道と車道を分離した最初の例であった。その後、市電の第三期線の事業によって、大正2年6月に立派なアーチ橋に架け替えられた。この橋は意匠面でも多大な配慮が払われた。同じ路線の本町橋と同じデザインとされ、橋脚は花崗岩製で側面にギリシャ建築に見られる石柱を模した装飾が施されていた。現在の橋は、昭和41年、高潮対策事業の一環として架け替えられたものである。


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・・・ようやく「靭公園」までやってきました。


靭公園550-0004大阪市西区本町

かつての靱塩干魚市場の跡地にあたる。海部堀川(第二次大戦後埋め立て)沿いの靱塩干魚市場は干物や肥料にする干鰯などの海産物を全国から集めていたが、1931年の大阪市中央卸売市場の開場後に閉鎖され、大阪大空襲で廃墟となった。戦後、約3万坪が占領軍に接収され、占領軍の常用飛行場、靱飛行場となった。1952年の講和条約発効をもって大阪市に返還され、靱公園として整備された。東西に細長い形をしているのは滑走路跡地であることによる。大きな木が多数植わっており、都会のオアシスである。また、公園西側の大部分を占める靱テニスセンターでは、世界スーパージュニアテニス選手権大会など国際的な大会も行われている。かつては靱蹴球場というサッカー専用グラウンドがあったが、テニスコートの拡大に伴い、現在は閉鎖されている。公園周辺は、1990年代後半から衣料店やカフェ、レストラン、パン屋や洋菓子店などが目立つようになり、ファッショナブルな街へと変貌する途上にある。公園東部では、公園が街路ではなく直接京町堀通り南側ビル群の裏側に接しているため公園に直接面したカフェやバーが出店したり、ばら園では屋外結婚式が行われるなど、大都会ならではの雰囲気となっている。靱公園の中央、なにわ筋沿いに楠永神社があり、大きなクスノキが目立つ。ここは古くからの神社でかつて海部堀川が横を流れており、靱市場の数少ない名残である。クスノキは戦後、飛行場建設の際に伐採されようとしたが、けが人やブルドーザーの故障が相次いだ。お祓いの際に神社の建物から白い蛇が出てきたことから「この木は神木なので切ってはいけない」という話になり今に残っている。公園内に作家・梶井基次郎の文学碑がある(1981年(昭和56年)に建立)