イザ!大阪FW(4) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・「江之子島」から「靭公園」へと西区を移動する予定でしたが、史跡の多い「福島区」「北区」界隈を先にFWすることにしました。


ふく1


福島天満宮大阪市福島区福島2-8-1

祭神は菅原道真・大国主命・事代主命などを祀る。この天満宮を俗に「上之天神」といい、このほか「中之天神」「下之天神」といわれる三社があったが、中之天神は太平洋戦争で、戦災にあい福島4丁目(大阪厚生年金病院入口南隣)にその跡があり、明治42年の北の大火のあと、翌年9月に同社を再建した時に立てた記念碑と石垣があるだけである。この三社の存立についてその昔、大阪を代表する天満天神の夏祭り「船渡御」を堂島川の下流で行われ、行宮の位置は天神橋下流から鉾流し神事によって、その鉾の流れ着いたところを行宮と定めていたので、これらの三社は、その時の行宮の跡とする説がある。なお、下之天神は、中之天神と同じく菅原道真と少彦名命を祀って、玉川1丁目に天神社として残っている。

浄正橋跡碑大阪市福島区福島2-1-34

国道2号線となにわ筋の交わる交差点を「浄正橋」と今は言うが、実際は、その交差点から約 100メートルほど南に下ったところを、東西に「蜆川」と言う川が流れ、そこにかかっていた橋が「浄正橋」と言われていた。大正15年5月、福島史談会が「浄正橋跡」の碑を建てたが、その碑は、福島2丁目1番の歩道に建っている。


ふく2


逆櫓の松跡碑/大阪市福島区福島二丁目2-4マンションドミール堂島前)

「平家物語」の逆櫓の段によれば、元暦2年(1185年)2月、源義経は平氏を討つため京都を出発し、摂津国の渡辺、福島から、四国の八島(屋島)を船で急襲しようとした。源義経は、船での戦いはあまり経験がなかったので、みなで評議していると、参謀役の梶原景時が「船を前後どちらの方角にも容易に動かせるように、船尾の櫓 (オール)だけでなく船首に櫓(逆櫓)をつけたらどうでしょう」と提案した。しかし義経は「はじめから退却のことを考えていたのでは何もよいことがない。船尾の櫓だけで戦おう」と述べた。結局逆櫓をつけずに戦ったが、その論争をしたところがこの場所と伝えられている。江戸時代の地誌「摂津名所図会」によれば、幹の形が蛇のような、樹齢千歳を超える松が生えていたという。この松を逆櫓の松と呼んだ。明治の初めには七尺程の根を残していただけと伝えられ、その根も明治42年の北の大火で焼失した。大正15年4月福島史談会が「逆櫓の松跡趾」の碑を建てたが、昭和20年3 月13日の大阪大空襲でその碑も一時行方不明になっていた。昭和33年、ある運送会社が地ならしをしていたところ碑が出てきたので、その会社前の歩道上に建てられていたのを昭和49年5月地元有志によって、現在地に移設された。

久留米藩蔵屋敷ゆかりの地「蛸の松」大阪市福島区福島1-1

久留米藩蔵屋敷ゆかりの「蛸の松」です。広島藩蔵屋敷と久留米藩蔵屋敷の境に、「蛸の松」と呼ばれる松がありました。当時を偲び再現されることになり、当時あた場所から現在地に移して、復活させたものです。蛸の泳ぐ姿に似ている事から「蛸の松」と呼ばれました。明治に枯死しましたが、切り株は大阪教育大学に保存されています。「蛸の松」は、慶安年間、広島藩主だった福島正則が植え、同藩が代々世話していたという説があります。



双松岡跡大阪市福島区福島1-1

双松岡学舎は、天誅組の総裁松本奎堂が、文久元年(1861)昌平豊で同学だた松林廉之助、岡千例らと創設したものです。松本奎堂は、翌年京都に移り、藤本鐵石、吉村寅太郎らと交わり、文久3年(1863)の天誅組の変で自刃しました。享年33歳。


ふく3


◆大阪中之島合同庁舎

敷地は、大阪駅の南西に約900m「水の都、大阪《を象徴する堂島川に面した大阪大学医学部跡地の一角にあります。敷地周辺は対岸を含め文化・国際のゾーンとして大規模な整備計画が進んでいます。そのような周辺の状況を視野にいれながら、計画が始まりました。敷地が大阪府によるスーパー堤防計画のエリアに位置していることと、合わせて大阪の歴史と文化の中心的役割を担ってきた「川《との関わりを、積極的に取り入れた計画としています。庁舎1階に設けた“大阪の原風景である葦原(あしはら)”をイメージしたアトリウム空間を核として、敷地南側の堂島川から北側のメインアプローチへと「川《がつながることを連想されるような、外構も含めた一貫したデザインとなっています。建物本体は、対比させることにより相互に引き立て合う効果を基本にデザインされています。具体的には、高層の建物の垂直性と川や橋の水平性との対比や外観をよりシャープに見せている白と黒の色彩などにその考え方が反映されています。また、高層化による周辺への圧迫感に配慮し、建物の外観処理と外構空地面をできるだけ多くとることでその軽減を図ると共に、緑化による憩いの場を創りだし、「水と人と緑《の関わりを建物と敷地一体に展開させています。平面計画については、検察庁が大部分を占める特性(小部屋と大部屋の混在やセキュリティ)に対応しつつ開放された空間を確保するため、1階にアトリウムを中心に食堂や情報コーナーを配し、2階に国際会議室や共用会議室を設けることにより、外部との多様な関わりに対処し、5階以上を検察庁のゾーンとする階層計画となっています。また、吹き抜け空間を採用することにより、外部に面した執務環境を大小の部屋の混成にも対応してフレキシブルに作り出すことを可能にしています。アトリウムへの吹き抜けからの採光や、各フロアーの対角に設けられたリフレッシュコーナーからの採光は、一般的に暗くなりがちな廊下を明るく開放的なものとして提供することができています。構造的には、高層化に伴う地震や風による揺れ・交通振動を軽減するために、1階から20階の各フロアーに制震装置(オイルダンパー)を設置することにより、建物の安全性と執務環境の向上を図っています。外部に使用する材料についても耐久性の高い石材等を使用することにより、建物等の長寿命化を図っています。

堂島リバーフォーラム

553-0003大阪市福島区福島1-1-1706-6341-0115

2008年5月2日開館。ビーインググループが運営するほたるまち内にある多目的ホール。堂島川に面して建てられている。高層マンションの「リバーレジデンス堂島」が併設されていて、建築確認上は一体として扱われている。1Fホールエントランス2F堂島リバーフォーラムCAFE(カフェ)リバーレジデンス堂島は、「堂島リバーフォーラム」と一体となって開発された高層のマンションである。ショッピングモール「堂島クロスウォーク」とも隣接しており、日常の買い物は容易である。フロア構成1Fセブンイレブン(コンビニエンスストア)3F大阪芸術大学ほたるまちキャンパス2008年以来慶應義塾大学慶應大阪リバーサイドキャンパスがあったが、2013年にグランフロント大阪のナレッジキャピタルに移転した。

「PIECE OF PEACE『レゴブロック』で作った世界遺産展 PART-3-」

2014年7月19日(土)~8月31日(日)

世界27カ国、40の世界遺産が約450,000ピースのレゴブロックにて再現されます。日本の姫路城や首里城、スペインのサグラダファミリアやギリシャのアクロポリスなど誰もが知っているものからマニアックなものまで一堂に会するかなり大掛かりなイベントです。


・・・私が行った時は、まさしく展覧会直後だったので、窓からまだ片付けていない作品をチラリ見えました。


ふく4


ほたるまち(Hotarumachi)

旧・大阪大学医学部附属病院跡地の再開発計画として2008年(平成20年)5月に開業した。「水都・OSAKA α」プロジェクトの一環として開業した。堂島川沿いに立地しており、北西端の上天神南交差点は曽根崎川(埋立)に架かっていた浄正橋跡である。また、現行町名は福島であるが本来堂島であるため、ほたるまち内の多くの施設の名称で「堂島」が使用されている。放送局や多目的ホール、超高層マンション、スーパー、レストラン、カフェ、スポーツジム、キャンパスなど、多様な施設から構成されており、隣接する大阪中之島合同庁舎と共に超高層ビル群を成している。ほたるまちに含まれる施設には朝日放送の本社や多目的ホールのABCホール、堂島リバーフォーラム、マンションのThe Tower Osaka、大丸ピーコック、大阪芸術大学の「ほたるまちキャンパス」、ゴールドジムなどがある。

【参考】福島浜緑道の愛称ネーミングライツパートナーとして、手嶋 祥一様と契約を締結し、その愛称を『Red&Blue Street』に決定しました。平成25年10月1日以降は、福島浜緑道を『Red&Blue Street』とお呼びください。

Hotarumachi Red&Blue」大阪市福島区福島1-1-12 堂島リバーフォーラム2F06-6346-0222

中之島にぎわいの森づくり

大阪の中心部を流れる堂島川(旧淀川)の東西約3kmの中洲「中之島」は、かつて江戸時代、全国の藩の蔵屋敷が立ち並ぶ、日本経済の中心地でした。大阪府では、大阪の中心地にある「中之島」の水辺をみどりと遊歩道でつなぎ、みどり豊かな空間の中ににぎわいを創出する「中之島にぎわいの森づくり」に取り組んでいます。みどりとにぎわいが融合する空間「中之島にぎわいの森」は、にぎわいに加え、安らぎを求める人には≪憩いの森≫として、ウォーキングやジョギングを楽しむ人には≪アウトドアの森≫、そして人との交わりや出会いを求める人には≪出会いの森≫として、都会に生きる人々がそれぞれの思いを叶えることができる空間をめざします。水辺の回遊性向上に向け、川沿いに中之島にぎわいの森シンボルツリーを植樹しています。中之島の川沿いにお越しの際は、ぜひシンボルツリーをご覧ください。


ふく5


福沢諭吉誕生地福島区福島1-1

天保5年(1834)12月12日、諭吉は当地にあった中津藩蔵屋敷で生まれた。父百助は諭吉が1歳8か月のとき急死、そのため母につれられ中津へ戻った。中津では儒学を学び、安政元年(1854)長崎遊学を終え江戸へ上る途中大坂の蔵屋敷へ立ち寄ったが、兄のすすめで翌年3月、緒方洪庵の適塾に入門し、後に塾頭になっている。3度にわたる幕府の遣外使節に随行、明治の文明開化啓蒙思想家として活躍、慶応義塾を開設した。この碑鳩の形をしており、に顔があります。金属製の碑が戦争で失われたことを受け、今度は石で碑を作り、そしてそこに平和の象徴、鳩がかたどられたというわけです。現在の碑の題字は小泉信三筆、碑文は高橋誠一郎の撰文で、西川寧の筆という豪華な顔ぶれ。建碑には大阪大学の協力も大きく、除幕式当日は潮田塾長と共に大阪大学の今村学長が祝辞を読んでいます。


・・・史跡やミュージアム巡りを中心にFWしていますが、街のすさまじいばかりの変化に驚かされます。というより、私が「ひきこもって」いたのかもしれません。とにかく、歩き続けましょう。