東大阪FW(4) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・ぜひ行ってみてくださいと「宮本順三記念館・豆玩舎おまけやZUNZO」ですすめられました。


◆【アミューズメント産業研究所】◆

577-8505東大阪市御厨栄町3-1-35学術センターU-BOX3階06-6618-4068

2001年に大阪商業大学の附置研究所として設置されたこの研究所は、余暇活動に対する国民の関心の高まりを受けて誕生した、大学レベルとして日本初の余暇産業を研究する専門的研究機関。現代生活における「遊び」や「趣味」、「楽しみ」といった余暇活動について、歴史、文化、経済、法律的な側面から包括的に分析し、将来のアミューズメント産業のあり方や方向性を追究しています。国内外の民族玩具と現在流行しているゲームとの比較文化的研究、国内外のギャンブルや宝くじの多面的研究などテーマも多彩で、学術書・機関誌も刊行。また、世界のギャンブルやゲームに関する資料といった収蔵品等の展示も行っています。また、様々なネットワークを構築し、共同研究などにも積極的に取り組んでいる本研究所では、2007年度「UGプロジェクト」と「ギャンブル依存症研究会」を発足しました。

■UGプロジェクト

神戸芸術工科大学との共同研究により、視覚障害者用の碁盤を開発しています。

■ギャンブル依存症研究会

社会科学や医学・病理学等の様々な分野から研究者をお招きし、「ギャンブル依存症」の研究会を開催しています。


・・・残念ながら、次回の企画展のための準備で臨時休館ということなので、見学もそこそこに退出しました。


あみ1


・・・さらに「おすすめ」されたのが、

◆【喫茶・美術館】◆

577-0805東大阪市宝持1-2-18和寧文化社

小社・和寧文化社の事業は、1975年、現在の東大阪市宝持の地で、テーブル7台、30席余りのおこのみやき屋「伊古奈」から始まりました。その後、伊古奈は83年、87年と二度の増改築を経て100席余りの大型店に成長し、2010年閉業までの35年間、店内画廊「花筺」とともに多くの方々にご愛顧いただきました。また88年に開業した「喫茶美術館」は、洋画家・須田剋太と民藝陶芸家・島岡達三の美術館を兼ねた喫茶店として、現在に至っております。そして以上の飲食業の他に、美術関係事業として、97年から長野県南佐久郡小海町にて「小海町高原美術館」の設立及び運営にたずさわりながら、小社所蔵の須田剋太、島岡達三、両先生の作品を公開(2000年3月で終了)98年には群馬県桐生市「大川美術館」にて「須田剋太展」を開催、01年からは北海道美瑛の丘に須田剋太・島岡達三美術館「新星館」を設立し、その後も各種展覧会への所蔵作品の貸し出しや、小社主催による展覧会やイベントの開催など、同様の活動をつづけております。このような事業の拡大と多様化にともない、小社の事業を一括する新たな統一名称が必要となり、2000年3月1日「和寧文化社(わねいぶんかしゃ)」を設立いたしました。このように小社がこれまで存続して来られたのも、ひとえに皆様方のご来店、ご愛顧のおかげです。今後も小社は、この東大阪の地を拠点に、食・美術・民藝・文学・音楽をはじめとするあらゆる文化にこだわりつづけてゆきたいとおもいます。皆様方からの末永いご支援を、何卒よろしくお願い申し上げます。皆様のご来店を心からお待ちいたしております。



あみ2


・・・またまた、ふられてしまいました。


当館の家具はすべて「松本民藝家具」です。当館特別展示コーナーにて「須田剋太と朝鮮」(須田剋太が表紙画を手がけた朝鮮関係書の数々)展示しています。須田画伯は生前、在日朝鮮人との交流の中で朝鮮関係の仕事も遺しています。その中で今回は「季刊三千里」「朝鮮人」「行基の時代」を展示しています。美術館として巨匠画家(洋画・書)須田剋太と民藝陶芸家(人間国宝)島岡達三の作品世界須田作品(約50作品)の常設展示と島岡作品(食器など)の用の美をおたのしみください。


・・・ここは、場所を確認するだけでも来た甲斐があります。


あみ3


樟蔭学園「樟徳館」登録年月日:20001018

577-0807東大阪市菱屋西2-4-12

樟徳館は、材木商の傍ら大正4年(1915年)に森平汽船会社を興し、さらに大正6年には樟蔭高等女学校(現・学校法人樟蔭学園)を設立した森 平蔵が私邸として、昭和初期に建築したものです。この場所は、大阪電気軌道(現・近畿日本鉄道)が大正14年に開発を始めた布施巽台住宅地の北寄り部分にあたり、帝国キネマの長瀬撮影所がありましたが、昭和5年(1930年)焼失後、森 平蔵が入手致しました。建物には日本各地の銘木が使用され、私邸建築のため、昭和7年頃から全国において銘木の蒐集が行われ、隣地には製材所を設け、原木の製材が行なわれました。昭和11年2月に着工し、翌12年5月頃にはかなりの部分の外観が出来上がっていることが当時の建築写真から見ることができます。建物の外観は全て和風となっておりますが、内部は和洋折衷の意匠が混在した点に特色がみられます。木造二階建の母屋は関西で最高といわれる松普請で、仏間や納戸などは杉や檜の銘木で普請されるなど、当時の技術の粋を駆使し、また大阪有数の木材業者であった故人の木に対するこだわりがひしひしと伝わって参ります。昭和7年頃からの構想の時期を入れると、実に7年の歳月を費やして昭和14年に完成した和洋折衷・大正モダンの香り漂う住居です。


あみ4

この建物は、森平蔵が昭和35年6月27日享年85歳で亡くなった後、遺志により樟蔭学園に寄贈され、樟徳館と命名されました。平成12年10月に「造形の規範となり、再現が容易でないもの」として、主屋・土蔵・鎮守社・門・東塀・南塀の6点が国の登録有形文化財に登録され、現在は大阪樟蔭女子大学の家政学実習などに使用されています。構造:木造瓦葺2階建建築面積:1305平方メートル


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彌刀神社

577-0817東大阪市近江堂1丁目12-1506-6722-0591

若江郡に属し、近江堂字山の上に鎮座する当社も、神名帳の記載からすれば弘仁式となり、官幣小社であった。祭神は速秋津日子神・速秋津比売神といわれている。本地域も、かつては等高線5m内外で囲まれた一大江湾にのぞむ大きな水戸、すなわち海に入りこんだ地帯あるいは河口であったところから、大水戸と,呼ばれ、それが「おおみと」と転じ、さらに訛って近江堂と呼称されるようになったのであろう。ところで古代では水の流れの速いところで祓を行ったから、やがてその「速かに明るく」という語が、交通の要地であった本地域に祭る水戸の神の名「速秋津日子神」「速秋津比売神」(秋は明の借字)にもなったものと考えられる。当社創建の年代は明らかでない。伝えるところによれば、由緒となるべき建物・器物などは、天平宝字6年6月長瀬川堤が決潰した際、字切所・切下・切の浦からの激流のために流失したという。東大阪市教育委員会


・・・行き当たりバッタリなので、たくさんふられてしまいましたが、それはそれで楽しいFWです。