・・・「司馬遼太郎記念館」にふられてしまったので、このままスゴスゴと東大阪から帰るわけにはいかない。まずは「樟蔭女子大学」へ。
※樟蔭学園は、大正6年の創立から一貫して女子教育に取り組んで参りました。その長い歴史の中では、社会の情勢や女性を取り巻く環境が大きく変化してきましたが、私たちはいつも時代の一歩先を見つめ、これからの社会で活躍できる女性の育成に努めて参りました。私たちが常に思うのは、園児・生徒・学生の皆さんが最高に輝ける学園であり続けたいという願いです。樟蔭学園に通う皆さんが、それぞれに充実した学園生活を過ごし、思う存分に自分の能力を発揮できる環境を整えることが一番大切だと考えています。そして、樟蔭で身に付けた高い知性と豊かな人間性によって、一人ひとりが自らの夢を理想的な形で実現し、“無窮の大空”へ羽ばたいていくことを願っています。樟蔭学園は、平成29年に創立100周年という大きな節目を迎えようとしています。100周年という記念すべきスタート地点に向けて、本学園ではさまざまな取り組みを始動させています。質の高い理想的な女子教育の実践を志した創立者の精神を継承し、社会で輝く女性を育成する学園として、これからも女子教育の更なる発展に貢献して参ります。この学園の理念をご理解いただき、皆様からのご支援・ご協力を頂戴できますことを心より願っております。
◆樟蔭紀念館/登録年月日:20060327
昭和2年、樟蔭高等女学校が創立10周年を迎えるにあたり、卒業生・在校生保護者・教職員及び一般の寄附を募って前庭に建築され、当初は樟蔭紀念館と呼ばれ、工事費は約10万円でした。木造2階建寄棟造りで、屋根は鋼板葺(当初は銅板葺)、外側大壁を石造風とする建物で、南に面する玄関は西側寄りにあり、玄関両側は一、二階とも張り出して塔状とし、中央二階屋根は一段あげて切妻破風の腰を折り多角形として、妻に彫刻を施しています。南東隅にも一、二階の窓を張り出して塔状にし、東西にも正面と同様の破風を付けてデザインを変えています。建物内部は、玄関を入ると吹き抜けの階段スペースがあり、一間幅の木製高欄付き階段により正面と裏側の両方向から、踊り場を介して2階に上るようになっています。建設当初、1階は階段部分を挟んで、東側は図書閲覧室と書庫、西側は事務室として使用しておりましたが、現在では、東側はインテリアデザインラボラトリー、西側は教室として使用されています。2階は、建設当初、東側に270人収容の大教室、西側に会議室兼来賓室がありましたが、現在は西側の用途が変更され、書道教室として使用されています。書道教室の壁面には、来賓室の名残りである造りつけの暖炉も残っています。全体として大正モダンの雰囲気を現在に伝える建造物で、学園のシンボル的な建物として現在に至るまで、多くの卒業生や教職員に愛されて参りました。
構造:木造2階建、鋼板葺/建築面積:449平方メートル
◆【田辺聖子文学館】◆
577-8550東大阪市菱屋西4丁目2番26号大阪樟蔭女子大学小阪キャンパス図書館内/06-6723-8182
田辺聖子氏は、1947(昭和22)年、本学の前身である樟蔭女子専門学校国文科を卒業なさいました。田辺聖子文学館は、この卒業生である田辺聖子氏の素晴らしい文学的偉業をたたえ、本学創立90周年記念事業として開館いたしました。文学世界をはじめ、人生や世界観など多様な角度から田辺聖子氏に触れていただけます。田辺聖子氏が本校で学んだ古典や現代文学などは、後の著作活動の大きな糧となったとご自身でも述べておられますが、在学中からすでに旺盛な執筆活動もしておられ、樟蔭女専時代の原稿や思い出の品々をご覧いただけることも、当館の大きな喜びです。この館で、田辺聖子氏の世界にいっそう親しみ、その心を味わい、みなさんが生きていく上での新たな発見をしていただければと願っております。
・・・田辺聖子「薔薇の雨」、年下の男との恋に落ちて5年。新鮮さがいつか馴れ合いになり、ときめきは穏やかな親近感に変わった今、留禰は別れが近いと知る。もはや止めることができない恋の終わりを受け入れようとする女、その心に溢れくる甘やかな悲しみを描いた表題作ほか、恋愛に翻弄され人生に行き惑う男女のありさまを、抒情豊かな筆致で描き上げた5篇。芳醇な味わい、深い余韻。まさに恋愛小説の傑作。「丸福珈琲店」が舞台になっていると聞いたので、先日買ったところなのです。
※富岡鉄斎「幻の大富士」
幕末から大正まで生きた鉄斎(1837~1918)は、生活の糧は画業で得ていたようだが、「自分は儒者だ、画家ではない」と言いつづけ、いわゆる文人画を、生涯で数万点残した。文人画というのは、本来学者や文化人が、自らの思想や人生観を画面に表す絵であり、専門の画家が描いた絵と区別しているが、鉄斎の画はその典型なのかも知れない。万巻の書を読み、万里の路を行き、老いるほどに輝きを増していく。文人の嗜みとして、若い頃から描いていたが、幾冊かの鉄斎画集を繙いてみると、60歳までの若描きは3割ほど。大半は70歳以降でそれも年取るごとに増え、最後の89歳の作品が一番多い。
・・・鉄斎まで見れて、大満足です。