・・・「クリスタ長堀」についてブログしようと思い立ったきっかけは、
◆ギャラリー「浪花百景」
大坂の名所をつづった浮世絵版画の組物「浪花百景」。現在の観光ガイドのような「名所図絵」が次々刊行され、評判になったのは江戸中期以降のこと。名所図絵は挿絵が多い絵入本だったが、その人気に影響され、浮世絵でも風景版画の組物(セット)が盛んになる。「浪花百景」は江戸での風景版画の組物の好評に着目した、大坂・北浜の版元が企画した。幕末大阪で活躍した浮世絵師、一養斎芳瀧(1841-1899)・南粋亭芳雪(1835-1879)・一珠斎国員(生没年不詳)が描いた風景版画100枚である。分担は芳瀧31枚、芳雪29枚、国員40枚。安政末期頃、全100枚の版画を制作した。
・・・じっくり見てるのは私ぐらいでしょうが、一度に全部見る必要はなく、通るごとに1枚2枚をチラッと見るのがオシャレだと思います。
江戸の風景版画の組物と同じように名所や風俗などをテーマにしているが、「浪花百景」の面白さは活気に満ちた町の姿を、機知に富む構図で描く点だ。例えば「あみ嶋風景」と「天満ばし風景」はそれぞれ、現在の大阪市都島区網島町、北区天満を描いている。両所は大川(旧淀川)を挟んで対岸にあり、2作品を横に並べれば、図柄が1つにつながる工夫が秘められている。また「長町裏遠見難波蔵」が描くのは浪速区日本橋辺りで、当時名産だった傘作りの様子。突風で傘が空に舞い、あたふたする職人らの様子が愉快だ。
その少し前に盛んに出された各地の名所図会をタネ本に、絵の一部をクローズアップしたり、アングルを少し変えたりした作品も多く、ネタ元を探し当てて見比べると、作者の意図が見えてくるのではないか、というのが上方美術史のエキスパートである大阪大学総合学術博物館教授の橋爪節也さん。
※橋爪節也
大阪大学総合学術博物館教授。専門は日本美術史。特に近世から近代にかけての上方の美術全般に精通する。大阪市立近代美術館(仮称)建設準備室主任学芸員 を経て、2008年より現職。1958年大阪生まれ。著書に『モダン心斎橋コレクション-メトロポリスの時代と記憶』(国書刊行会)、『モダン道頓堀探検 -大正、昭和初期の大大阪を歩く』『大大阪イメージ-増殖するマンモス/モダン都市の幻像』(共に創元社・共著)などがある。
★大阪府立図書館・頴川美術館所蔵「「浪花百景」
・・・この2館が所蔵されているようです。
※公益財団法人「頴川美術館」
662-0813西宮市上甲東園1丁目10-40/0798-51-3915
重要文化財を含む美術工芸品等文化財の収集と保存及び公開と調査研究を目的に、実業家・頴川徳助(幸福銀行社長)が中心となって1971年に設立、1973年に開館した。2009年より、近接の関西学院大学と連携協力協定を締結している。水墨画や長沢芦雪、池大雅らの近世絵画および茶道具、墨蹟など約500点を収蔵・展示するほか、前述の協定により、学院系列の学校には、研究資料の提供や、芸術に関する学外講座の実施などの活動を行っている。
・・・他にもギャラリーと銘打つ場所が2つほどあります。
◆長堀川・長堀橋
『浪華長堀心斎橋記』によると、開削された時期は1622年、開削者は三栖清兵衛、池田屋次郎兵衛、伊丹屋平右衛門、岡田心斎らが中心になったとされる。また、新規に開削されたものではなく、それ以前にあった川の幅を広げたものと推測されている。さらに、西長堀川の部分は1622年以前に完成していたという説が有力である。東横堀川の末吉橋下流より分流し、西に向かって流れて木津川の伯楽橋下流に注いでいた。長さは約2.4km、幅約50mであった。西横堀川と交わる地点には4つの橋が架けられていたため四ツ橋と呼ばれるようになった。また、この地点より東側を東長堀川、西側を西長堀川と呼んでいた。東横堀川、西横堀川、道頓堀川、そして長堀川で囲まれた一帯を島之内と言う。
・・・地上である「長堀通」もなかなかのミュージアムです。
◆「平和の像(無限)」昭和40年8月建立/作:向山狭路(昭和39年)?
※新家工業(株)542-0081大阪市中央区南船場2丁目12-12/06-6253-0221
1903年に石川県山中町で初代新家熊吉が日本で初めて自転車用木製リムを製造したことからアラヤの歴史は始まりました。当時、自転車は海外から輸入された高価なもので、新家熊吉はこの便利な乗りものを国内で大量生産し、すべての人に手軽に活用してもらえることを夢見て、国産リムの開発に取り組んだのです。以来、リムのトップブランドとして培ってきたロールフォーミング技術を駆使し、鋼管や型鋼など多岐にわたる製品をお届けしてまいりました。 これらの製品は、自動車、オートバイ、自転車、建築、家具、産業用機械、福祉機器、物流機器など幅広い分野で使用されています。人と暮らしの幸せのために技術ができること、技術者ができること。その無限の可能性をアラヤは創業以来ずっと追求し続けています。
◆「天啓」「愛」作:藤野天光(1903~1974)出光ナガホリビル
本名は藤野隆秋。別号は舜正。群馬県館林市生まれ。1928年(昭和3年)東京美術学校(現在の東京芸術大学)塑造部を卒業し、北村西望に師事・製作助手を務めました。音楽家の村上正治とともに千葉県市川市の地域文化発展に貢献。日展審査員を6回、さらに理事をつとめる。
★出光美術館「大阪分館」
出光美術館は、一時は大阪市と福岡市中央区大名の出光興産福岡支店2階にも分館を設けていた。しかし、福岡分館は出光のガソリンスタンドの真上のフロアにあったため、消防法に基づき国宝や重要文化財が展示できないままだった。2000年(平成12年)、出光興産創業の地である北九州市の要請を受け、福岡分館(福岡出光美術館)を移転する形で門司港レトロ地区にあったかつての倉庫跡を改装して開館した。隣接して、創業者である出光佐三の生涯を紹介する「出光創業史料館」が併設されており、出光興産本社にあった当時の執務室が移築・再現されているほか、歴代の出光の看板・商標などが展示されている。福岡分館は福岡支店の移転により取り壊され、現在はシティホテルになっている。なお、大阪分館は2003年3月23日に閉館された。
★市立近代美術館計画
大阪市は、19世紀以降の近代美術・現代美術のコレクションも形成している。その中には、日本画の北野恒富・島成園、写真の安井仲治、現代美術の吉原治良など大阪を舞台に活躍した作家、佐伯祐三ら大阪にゆかりのある作家、モディリアーニやコンスタンティン・ブランクーシ、ゲルハルト・リヒターなど海外の重要な作家の作品がある。佐伯祐三の作品を一括して寄贈されたことがきっかけとなり、1988年、市制100年を記念して大阪市立近代美術館建設計画が発表され、以後コレクションの形成が進んできた。特に16億円で購入したモディリアーニの作品は話題となり議論を呼んだ。当初から大阪市立近代美術館の建設用地は、中之島にある国立国際美術館北隣の大阪大学医学部跡地に絞られていた。1998年には近代美術館基本計画委員会が「近代美術館基本計画」の答申を行い、延床面積24,000平方メートルの建物を、敷地面積16,900平方メートルの土地に整備費280億円で建設する計画を発表。しかし、予定地から蔵屋敷跡が発掘されたことに加え、市が財政難に陥り建設費(約280億円)が捻出できず、計画は凍結状態となった。2004年(平成16年)からは長堀通沿いの東急ハンズ心斎橋店傍にある出光美術館跡のスペースを、「大阪市立近代美術館(仮称)心斎橋展示室」という名称で使用し所蔵品の展示を行ってきた。建設予定地だった中之島の土地は時間貸し駐車場となっているが、2007年(平成19年)新年度予算案に約500万円を調査費として計上し、当初の事業計画を見直した上で約5年ぶりに建設に向けて事業が再開されることとなった。2010年には「近代美術館あり方検討委員会」が設置され、翌2011年には「大阪市立近代美術館整備計画(案)」が発表され、1998年の答申より規模は縮小されることになった。2012年11月25日には大阪市立近代美術館(仮称)心斎橋展示室は閉館している。2013年には大阪市の戦略会議が中之島への新たな美術館の建設を決定し、その中で天王寺の市立美術館を中之島の新美術館に統合して、古代から現代までを扱う総合美術館とすることも検討された。後に美術館の統合は行わず経営のみを統合することとなったが、この過程で新しい美術館の建設準備室は「近代美術館建設準備室」から「大阪新美術館建設準備室」へと名称を変更している。
★ゆとりとみどり振興局「近代美術館建設準備室(06-6469-5181)」
大阪市では、平成24年11月25日(日)をもって大阪市立近代美術館(仮称)心斎橋展示室を閉館します。心斎橋展示室は、近代美術館が整備されるまでの間、大阪市立近代美術館建設準備室が所蔵している近代美術館コレクションを広く鑑賞していただくため、平成16年10月に開館しました。これまでに27回の展覧会を開催し、延べ22万人以上の方にご来場いただいているところですが、近代美術館コレクションの展示については、既存の集客施設での展覧会の開催や民間事業者との連携など、新たな事業展開を図るため、現在、平成24年11月25日まで開催している「ザ・大阪ベストアート展-府&市モダンアートコレクションから-」をもって閉館することとなりました。近代美術館コレクションにつきましては、平成25年度以降も継続して、展覧会などを通じ、市民の皆様への公開に努めてまいります。また、近代美術館の整備につきましては、現在、検討を進めているところであり、今年度中には方向性について改めて発表する予定です。
◆橋本宗吉絲漢堂跡/大阪市中央区南船場三丁目3-23
宝暦13年(1763)北堀江に生まれた。極貧の中でエレキテルの実験などで才能を発揮、間長涯(はざまちょうがい)らの目にとまり、その援助で江戸へ出て大槻玄沢(げんたく)に師事、蘭語を学んだ。帰坂後、医業のかたわら長涯らに天文学・医学の蘭書を翻訳、また蘭学塾絲漢堂を開いた。その弟子に中天游(なかてんゆう)がおり、緒方洪庵-福沢諭吉へとその系統は続いている。




