クリスタ長堀(5) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・「よつばし」まで来ました。


よつ1


「OSAKA VICKY!」ロイ・リキテンシュタイン(Roy Lichtenstein)

実はこのビル、クリスタ長堀の空調設備などが入っているクーリングタワー。せっかくなので道行く人たちにアートな気分を楽しんでもらおうと、巨大な壁画で彩ったというわけです。この作品は、ロイ・リキテンシュタインが1964年に制作した"ヴィッキー"シリーズをもとに、特別に大阪のため新たな要素を描き加え制作されたオリジナル作品です。


よつ2


・・・そのクーリングタワーの足元に、江戸時代中期の俳人小西来山の「涼しさに四ツ橋を四ツわたりけり」、上島鬼貫の「後の月入て貌よし星の空」というこの場所にちなんだ句碑が建てられています。


◆四ツ橋・四つ橋


地下鉄四つ橋線四つ橋駅の階段を上がると、四ツ橋筋の四ツ橋交差点・・・。地下鉄は四つ橋と、「つ」がひらがな、地上に出てくると四ツ橋と「ツ」がカタカナになっています。何でも、名前付けたのが、道路の方はの大阪市の土木局、電車(昔は市電)の方は電気局だったそうで、それぞれ別々に届けたからという説があります。



よつ3


川が交差している場所で、この水路の十字路を渡るのに四つの橋が架かっていたから四ツ橋なんです。四ツ橋筋と長堀通りの交差点「四ツ橋交差点」の真ん中に、石碑があり、昔の橋の橋名板をはめ込んだ橋のミニチュアもしつらえてあります。橋の名は、西横堀川に掛かっていたのが上繋橋と下繋橋、長堀川に掛かっていたのが炭屋町橋と吉野屋橋というそうす。



よつ4


大阪市立電気科学館

交差点の北東角に、昭和12年(1937年)に東洋で初めてのプラネタリウムが設置された大阪市立電気科学館がありました。平成元年(1989年)に閉館するまで1906万7216人もの人々が訪れたそうです。遠足で訪れた私も数に入っているわけです。翌年東京にもプラネタリウムはできますが、戦災で失われ、昭和32年、東京・渋谷に開設されるまで、日本で唯一の施設だったのです。

手塚治虫は少年期から開館間もない電気科学館に頻繁(だいたい一月に1回)に通っていました。その頃の思い出を「懐しのプラネタリウム」と題して、大阪市立電気科学館星の友の会「月刊うちゅう」1985年7月号へ寄稿。1987年(昭和62年)に電気科学館50周年記念講演会を行っています。

夫婦善哉で広く知られる風俗作家のオダサクこと織田作之助(1913年~1947年)もまた、電気科学館のファンでした。オダサクの小品「星の劇場」には次のように書かれています。「・・・戦地の友人から便りがあったので、周章てて四ツ橋畔の電気科学館へ行き、六階星の劇場ではじめてのプラネタリウムを見た。感激した。陶酔した。実に良かった、といふより外はない・・・」。氏の長編「わが町」には、このプラネタリウムが登場します。後に川島雄三監督により映画となった「わが町」では、実際に電気科学館でロケが行われています。

老朽化を理由に1989年(平成元年)5月閉館。代替施設として同年に北区中之島にオープンした大阪市立科学館があります。現在は、その電気館の面影を残した設計の多目的ビル「ホワイトドームプラザ」が建ってます。



昭和設計は、建築の企画・設計をはじめ、都市開発から、都市インフラである上下水道整備まで、幅広いサービスを提供する総合設計コンサルタント会社として、1957年の設立以来、半世紀を超える歴史を重ねて参りました。この歴史に裏付けられた技術力と創造力を礎として、既成概念に捉われることなく、多角的な視点を持ち、お客さまと共に未来を拓くパートナーでありたいと考えています。時代と共にますます多様化するお客さまの課題や要望に対し、常にお客さまの立場で考え、的確な解決策や新たな価値創造に向けた最適解を共に考えることで、お客さまのそして社会への貢献に努めてまいります。

当施設は、大阪で長年市民に愛された元「電気科学館」の跡地有効利用事業コンペの当選案である。コンセプトとしては、「国際集客都市・大阪への貢献」、「四ツ橋地区都心機能への寄与」、「元電気科学館シンボル性の継承」を掲げている。具体的には、151室のビジネスホテル「ブルーウェーブイン四ツ橋」とホテルスクール、飲食・サービス店で構成される複合施設である。特にホテルは、女性ビジネスマンもターゲットとしたデザイン構成となっており、「くつろぎのある空間」、「洗練された空間」、「機能性の充実」をテーマとしたニュータイプのビジネスホテルとしている。



よつ5


・・・「大阪市立科学館」へは、孫といっしょに行くつもりです。