天王寺へ(2) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・「こども展」も良かったのですが、「コレクション展」もなかなかのものでした。


●コレクション展

2014年6月24日(火)~7月6日(日)、7月19日(土)~8月31日(日)

ようこそ信濃橋洋画研究所

大正13年(1924)、関西の洋画壇で活躍していた鍋井克之らによって信濃橋洋画研究所が設立されました。大阪における洋画研究の拠点として多くの画家を輩出し、展覧会を主催するなどの活動を行った研究所に焦点をあて、指導者の鍋井や国枝金三、そこで学んだ画家たちの作品をご紹介します。

寺社絵-神仏と人が交わる絵画

寺社は神仏をまつる聖なる空間です。神仏と人が交わるには不思議な物語、美しい風景、厳かな儀礼を描く絵画が必要でした。縁起絵、名所絵、祭礼図、肖像画など、彩り豊かな寺社絵の世界をご鑑賞ください。

江戸の版本と百鬼夜行絵巻

江戸時代も後期になると、出版文化は隆盛を極め、さまざまな版本が刊行されました。それらの版本の中には、絵師による本格的な挿絵も多く見られます。当館所蔵の原在中筆「百鬼夜行絵巻」とともに、少し怖くてどこか面白い版本の挿絵をご紹介します。

煙管筒明治・大正の細密工芸

煙草入れ・煙管筒・根付・緒締は袋物商が中心になり様々な職人に依頼して作らせていました。明治になり廃刀令がでると腰帯に煙管筒を挿すことが流行します。この後、紙巻煙草が普及するまでの短い間ですが、煙管筒制作には様々な工芸家があたり、技を競いました。



これ1


・・・展覧会の後は「慶沢園」と思っていたら、工事中でした。それなら昼食をと「榴樹」へ。ここは、ほとんど昔のままです。私の「美術」遍歴のスタートも、天王寺美術館の地下からです。


これ2


・・・そんな懐かしい気持ちで展覧会を振り返りますと、「小出楢重」さんのことがとても気になりました。


これ3


・・・先日の大阪FWで「戎橋」に、小出さんの絵がプレートになっているのを発見したり、さらにその前には「芦屋市立美術博物館」で小出さんのアトリエを見学したり、その横には「谷崎潤一郎記念館」がありました。


小出楢重と谷崎潤一郎小説「蓼喰ふ虫」の真相

著:小出龍太郎明里千章荒川朋子/春風社

『蓼喰ふ虫』は谷崎潤一郎の小説で代表作の一つ。1928年(昭和3年)12月から1929年(昭和4年)6月まで『東京日日新聞』『大阪毎日新聞』に連載された。愛情の冷めた夫婦を中心に描いている。新聞連載では小出楢重の挿絵が付せられたが、岩波文庫版ではその挿絵を使っている。小出の孫小出龍太郎は、娼婦ルイズのモデルは楢重の親しかった中国人娼婦ではないかとしている。

画家・小出楢重と作家・谷崎潤一郎のコラボレーションによって生まれた名篇『蓼喰ふ虫』。ここには小出家にまつわる数々の謎が隠されていた。興味深いエピソードとともに孫が明かす、洋画家・楢重の人と真実!二人の出会い、原稿の執筆過程、挿絵の方法を解明する谷崎研究家による論考を併録。

01章 谷崎潤一郎「蓼喰ふ虫」の構造(小出龍太郎)

02章 「蓼喰ふ虫」と小出家(小出龍太郎)

03章 谷崎は小出楢重をいつ意識したか(明里千章)

04章 「蓼喰ふ虫」挿絵の方法(明里千章)

05章 「蓼喰ふ虫」執筆状況と挿絵をめぐって(荒川明子)


・・・本は購入してありますので、この秋にじっくり読みたいと思います。


これ4


画家でありながらも、谷崎潤一郎をして座談の名手と感嘆せしめた小出楢重。小出楢重が生まれ育った島之内及び船場には、1920年代にはまだ伝統的な和風の商家が多く、実際に楢重が住んでいたのも和風の住宅で、かつて日本画家・北野恒富の住居だったという。このような中で、大阪にモダニズムはあるかと問いつづけ、まさに格闘しながら絵を描いたのであった。1921年にフランスに行ってから、楢重は生活様式を和風から洋風に一変させた。代表作のひとつであるこの「帽子をかぶった自画像」の背広姿は、そのような画家の立脚点を求めようとする決意の表明であったという。しかしながら、当時はそんな洋画を飾るべき空間もまだあらわれておらず、そこでまた楢重は悩むのであった。今日からみれば、様式のごった煮のような建物も、モダニズムとの格闘の結果であり、また新しい時代へ踏み出すための啓蒙の現場でもあった。楢重は、モダン文化の特質を、毎年新しいものを求めて古いものを捨てていくものであるという。しかしながら、年輪によって磨かれて出てくるつやや、さびのようなものを「新しき雅味」と呼び、<巴里(パリ)なぞにはこの新らしき雅味が至る処に存在する。それが巴里の羨やましい処で仏像を洗い落したような尖端は発祥しない。それが芸術家をして巴里の生活を憧れしめる重大な原因の一つでもあるといっていいかも知れない。>と書いている。楢重自身もモダン建築を見て歩くのが好きだったようだ。<近来大阪の都市風景は日々に改まりつつあり、新しき時代の構図を私は中之島を中心として、現れつつあるのを喜ぶけれども、同時に古き大阪のなつかしき情景が消滅してしまうのを惜むものである。私は本当の都市の美しさというものは汚いものを取り捨て、定規で予定通りに新しく造り上げた処にあるものでなく、幾代も幾代もの人間の心と力と必要とが重なり重なって、古きものの上に新しきものが積み重ねられて行く処に新開地ではない処の落着きとさびがある処の、すくい切れない味ある都市の美しさが現れて行くのだと思っている。私はそんな町を眺めながら味わいながら散歩するのが好きだ。><ところが学術、文芸、芸術とかいう類の多少憂鬱な仕事をやろうとするものにとっては、大阪はあまりに周囲がのんきすぎ、明る過ぎ、簡単であり、陽気過ぎるようでもある。簡単にいえば、気が散って勉強が出来ないのだ。>結局、小出楢重は1926年に、当時まだ漁村であった面影を残す芦屋に、洋風の本格的なアトリエを建て、移住してしまうのであった。


これ5


信濃橋洋画研究所)跡/大阪市西区靭本町一丁目11

大阪に香り高い文化を根づかせようと、大阪出身の洋画家小出楢重・国枝金三・鍋井克之らが中心になって、大正13年に開設された信濃橋洋画研究所は、理論と実技を組み合わせた特色ある教育を行った。そしてその中から、多くの専門画家を輩出した。その後、研究所は昭和6年中之島に移り、中之島洋画研究所と改称したが、昭和19年戦争激化に伴い閉鎖された。その間、大阪の近代洋画界の発展に大きく寄与した。


・・・雨の日でしたが、「信濃橋」まで来てしまいました。このまま帰るわけにはいきませんので、勇気を出して?「御堂筋」を歩くことにします。