・・・平野郷「古市街道」をブログしてから、気になることがあって、さらに調査を進めてきましたので報告します。
◆大阪市立川辺小学校の沿革史より
547-0014大阪市平野区長吉川辺1丁目4番9号/06-6790-8351
昭和54年4月(1979)大阪市立川辺小学校が開校。
昭和63年3月(1988)南校舎壁面に「壁画」完成。
昭和63年11月(1988)創立10周年記念式典挙行。
・・・とても目立つ校舎のタイル壁画は、10周年記念なのかなあ。描かれている埴輪の実物を見てみたいと思いました。
★川辺地域の歴史的変遷(川辺振興町会HPより)★
●縄文時代(6000年前)
縄文時代の大阪は、生駒山地、上町台地に挟まれた河内湾(ちぬの海)があり、その河内湾に大和川や淀川、西よけ川が流れ込んでいました。川辺地域は、東除川が河内湾に流れ込む場所であり、魚を採ったり、猟をしたりする場として適しており、人々が生活していました。その生活のあとが「長原遺跡群」として発掘されています。
●弥生時代(3000年前)弥生時代には、河内湖も大和川の運ぶ土砂により、埋め立てられてきましたが、川辺地域は、洪水の被害を受けない場所として、村が作られ、田畑を営んで生活していました。その生活のあとが、「川辺遺跡」として発掘され、歴史資料館に保存されています。
●古墳時代(1500年前)
古墳時代には、村も発展し、豪族もあらわれ、大きな墓を作ることが盛んになりました。川辺地域は、その古墳あともたくさん発見され、「長原古墳群」となっています。また、水上交通も盛んで、舟形埴輪や大きな荷物を運ぶ修羅も発掘されました。
●南北朝時代(600年前)
南北朝時代、川辺地域は、大和川と東除川に挟まれた地域として羽曳野方面から大阪(なにわ)に出る交通の要所として、重要な拠点となっていました。そこで羽曳野地方を治めていた楠木正成は、この地域に巽城を築き、足利尊氏とともに鎌倉幕府を倒しました。しかし、その後、後醍醐天皇の率いる南朝側につき、北朝側の足利尊氏と争いました。そのなごりが川辺神社(八幡宮)や六反地域の赤坂神社、長吉城山という地名で残っています。
●江戸時代(300年前)
1703年大和川の付け替え工事が行われました。計画は数回行われ、川辺地域が予定として含まれると村をあげて反対しました。反対の理由としては、・大和川は、天井川であり水を引きにくい。・大和川は、よく氾濫を起こす川で、洪水が起こる。・村と田畑が分断され、田畑の仕事に行けない。・大和川をつけかえることで、田畑が少なくなる等でした。しかし、結果は工事がすすめられ、川辺村は、大和川によって川の北に村があり、南に田畑があるという不便を強いられました。また、洪水に合わない村だったのが、大和川ができたため、たびたび洪水になり、川辺神社も何回も壊れることがありました。大和川の水量が増すと、付け替えした東除川に水が逆流し、南側の田畑は幾度も洪水に合いました。大和川の付け替え工事によって削られた田畑については、東除川を埋め立ててできた田畑を代わりにもらいました。現在の川辺小学校から、出戸駅に向かう地域です。その地域は、荒地であり、稲作に向かないので、綿や桑を栽培するようになりました。それが河内木綿の始まりで、平野区の花になっています。しかし、川辺村は、南北をつなぐ交通の要所であったため、大和川の水量が増し、川止めとなった時には、宿となったり、店もできたりして発展してきました。また、川辺に船着場があったため、堺から船もやってきて、人や荷物の往来も盛んになりました。川辺に商店が多かったのは、そのためです。
●明治時代
1871年(明治4年)になると、天領であった川辺村は、廃藩置県により、堺県丹北郡川辺村となりました。また、交通の要所として発展してきた川辺村に「明治橋」が作られ、大和川の往来がたやすくなり川辺村の役割も少なくなりました。明治22年には市制・町村制により、川辺村、長原村、六反村、出戸村の4村が合併して、中河内郡長吉村となりました。
●戦争のころ(昭和初期)
日中戦争から第2次世界大戦にかけて、戦争の準備が盛んになりました。大和川の堤防拡張工事が行われ、川幅が広げられ、頑丈な堤防も築かれました。そのため、川辺村の民家も一部削られ、すぐそばに堤防がくるようになりました。また、八尾の陸軍航空隊訓練所が、陸軍の空港になり、戦闘機の整備工場もでき(現瓜破霊園地域)八尾空港と瓜破間で鉄道が敷かれました。そして川辺村の北側に連絡滑走路が作られました。その他、大和川をはさんで、戦闘機訓練も行われました。また、大阪市営バスが初めて営業したのは昭和2年の平野から阿部野間の運行でした。
●第2次世界大戦後(昭和後期~平成)
戦後、新しい憲法の制定とともに、教育制度も新しくなり小学校・中学校が設置されました。昭和30年、大阪市に編入され、長吉村川辺から東住吉区長吉川辺町になりました。大阪市に編入されることで、水道給水が行われ市営バスが通るようになりました。昭和30年ごろから宅地ブームとなり、市営・府営・公団住宅の建設が始まりました。昭和45年、馬池の西側の田畑も宅地として開発され、市営長吉長原第3住宅ができました。住宅の建設とともに長吉地域の人口も増加しました。昭和45年、中央環状線の建設にともない、川辺2丁目と3丁目の間に大きな道路が通るようになりました。昭和49年、東住吉区が分けられ、新しく平野区が誕生し、平野区長吉川辺町となりました。昭和53年から、長吉・瓜破地区土地区画整理事業が始まり、道路の建設などが進められました。昭和55年には、地下鉄谷町線が開通し通勤や通学が、便利になりました。昭和63年、明治橋の付け替えが行われました。馬池の埋め立ても進められ、新たな道路も作られました。大和川の河川敷にも公園が作られています。
★長原72号墳
古墳(方墳)、墳丘長3m
大阪市文化財協会1993、須恵器(高杯)+埴輪(円筒埴輪)
「川辺小学校」建設に伴う調査、NG18次、1979年
大阪市文化財協会「長原川辺遺跡調査略報」『大阪府下埋蔵文化財担当者研究会(第1回)資料』(1979)、 大阪市文化財協会『長原・瓜破遺跡発掘調査報告』V(1993)
★長原73号墳
古墳(方墳)、規模不明、TK73~TK208型式の時期
大阪市文化財協会1993、須恵器(杯蓋+杯身+椀+壺+甕、TK216型式)
「川辺小学校」建設に伴う調査、NG18次、1979年
大阪市文化財協会「長原川辺遺跡調査略報」『大阪府下埋蔵文化財担当者研究会(第1回)資料』(1979)、大阪市文化財協会『長原・瓜破遺跡発掘調査報告』V(1993)
★長原79号墳
古墳(方墳)、TK73~TK208型式の時期、墳丘長9m、周溝(幅2m)
大阪市文化財協会1993、土師器(高杯)+須恵器(杯蓋+ハソウ)+埴輪(円筒埴輪+家形埴輪)
「川辺小学校」建設に伴う調査、NG18次、1979年
大阪市文化財協会「長原川辺遺跡調査略報」『大阪府下埋蔵文化財担当者研究会(第1回)資料』(1979)、大阪市文化財協会『長原・瓜破遺跡発掘調査報告』V(1993)
★長原高廻り古墳群/平野区長吉長原2丁目14「なみはや公園内」
長原付近には、300~500基に及ぶ小型古墳があったと推定されている。小型古墳にかかわらず、出土する埴輪は大王級古墳に匹敵するほどの種類と出来栄えをもつ。墳丘は削りとられていたが、堀内から出土した船形埴輪・家形埴輪など33点の埴輪は国の重要文化財に指定されている。昭和62年(1987年)、この地から5世紀前半の円墳と方墳が発見された。特に高廻り2号墳(直径約21mの円墳)周濠からは、5世紀前半の、現在知られる最大の船の埴輪が出土した(全長128.5cm、幅 26.5cm、高さ36cm、平成4年市内出土遺物としては初めて重要文化財指定を受ける)。埴輪の全体比率から実物大の船を想定すると、全長約15m、幅約3m、総20~30トン、数十人を乗せることができると思われ、当時は朝鮮半島や中国大陸との交渉が始まった「倭の五王」の時代にあたり、十分外洋にこぎ出せる船であったことは注目に値する。船形埴輪は1989年、大阪市制100周年を記念して「古代船なみはや」として復元され、実際に韓国釜山までの航海を行なった。現在では、石柱とともに、この付近の歩道に船形のモチーフがはめられている。
・・・「古代船なみはや」のことが気になりました。
★長原古墳群
1973年(昭和48年)、大阪市営地下鉄谷町線延長計画に伴う長原遺跡の発掘調査で、地上には何ら古墳の痕跡がないのに円筒埴輪などが次々と出土した。調査を続けると墳丘の盛土の多くは失われているものの、周囲に濠を持つ小規模な古墳の痕跡が多数残っていることが判明した。次いで、直径50メートル以上、残存部で2段に築かれた墳丘が姿を現し、その地区の小字名が塚ノ本であることから、塚ノ本古墳(円墳)と名付けられた。地籍図を調べると他にも、一ヶ塚、落塚、狐塚、高塚など周囲にかつて古墳が存在したことをうかがわせる地名が存在し、その範囲は南北2キロメートル、東西1.5キロメートルにも及んでいた。これらの範囲では市営地下鉄工事の後も近畿自動車道の建設、区画整理事業、下水道工事、住宅建設、建築の建て替え工事などに伴い、続々と古墳の遺構が調査され、2006年までに調査、検出された数は213基にも及んでいる。
・・・そして、大阪市立平野区民センター「埋蔵文化財収蔵倉庫」に行ってみることにしました。