・・・今回の大阪FW、最終目的地です。
◆【日本工芸館】◆
556-0011大阪市浪速区難波中3-7-6/06-6641-6309
日本工芸館は我が国の長い歴史に育てられた伝統的工芸品(民芸品)の保存育成と普及を目的とし、昭和25年大阪市北区堂島に残存していた江戸時代の米蔵を改造して開館、昭和35年開館10周年を迎えるにあたり、これを記念して現在の所に新築移転しました。何時の時代にも庶民生活と深く交わる民芸は、無名の工人の手で作られたものでありますが、非常に美しい品々を生んでおります。日本工芸館はこれ等現存民芸の技術保存と育成、普及に努め、併せて庶民生活の美化運動にも寄与したいとその運動を進めています。展示の民芸品は我が国が生み出した伝統的工芸品です。この民芸品は今や世界的に高く評価されています。当館では日本各地で生産された民芸品を収集した所蔵品を常設展示しています。また、毎年11月を伝統的工芸品月間と定め、日本民芸公募展を開催しています。日本の歴史的工芸文化の一端として民芸の用と美をご鑑賞下さい。
工芸とは手作りで生活用具等を言います。一般的に「用と美」が工芸とされています。工芸の分野として陶磁器、漆工、金工、木工、枝条杞柳品、染織、ガラス等があります。1974年伝統的工芸品産業の振興に関する法律が制定され、100年以上の伝統的な歴史を持つ技術技法によって製作された製品を伝統的工芸品と呼ばれた。その伝統を維持する為、国の保護を受け今日まで受け継がれています。数多くの技術や技法は日本の文化として根付いており、多数の文化財として今日まで維持できるのも技術技法が受け継がれてきた賜物であります。
民芸とは民衆的工芸品の略称語であります。民芸は、庶民の生活用具で、暮らしの要求に応えた産物であります。(実用品)民芸とは健康体・実用的・素朴・用に忠実・手工芸として安価なもの。民芸とは先祖から伝えられた技術技法を受継ぎ、時代に適応して生産します。(伝統工芸)民芸とは無名の工人が用者を主体として用に忠実な品々を作ります。(美を追っかけない仕事)民芸とは個人の力だけでなく、分業または協同によって生産されます。(他力道)民芸とは美を追っかけない仕事ですが、美に追っかけられた美しい品々を産出します。(巧まざる美)
三宅忠一は柳宗悦の著書「工芸の道」(1928)に感銘を受け、昭和10年頃から民芸運動に参加した。戦後北海道における民芸の調査を柳から一任されるなど日本民芸協会の中心的メンバーの一人として活躍した。民芸運動に携わる傍ら、大阪のスエヒロ本店(レストラン)の経営者となり"しゃぶしゃぶ"を考案して、実業家としても非凡な手腕を発揮した。昭和25年には日本民芸協会大阪支部の運動拠点として日本工芸館を建設し、昭和30年には「日本の工芸」を発刊し民芸運動を推進した。しかし、精力的に活動してきたが昭和34年柳氏との意見の相違から「日本民芸協会」を脱会し、新たに同好の士を募り「日本民芸協団」を設立した。三宅忠一の信念として、民芸と美術工芸は別のものと考え、これを民芸から分離する意味で全国各地を飛び回り、民芸の生産を指導し奨励した。日本民芸協団設立と同時に、精力的に産地の生産を振興する方策を次々と実行し、民衆の生活に民芸を取り入れ国民生活の美化運動と生産地の発展に終世を奉げた民芸運動の先駆者である。
大阪・ミナミの難波のビルが建ち並ぶ通りの一角を占める古い米蔵をイメージした建物は、庶民の日常生活用具として作られた伝統工芸、即ち「民芸」を保存、展示している日本工芸館。日本工芸館は大阪・北区堂島に残っていた江戸時代の米蔵を改造して開館し、昭和35年(1960)開館10周年に現在地へ移築した。収蔵しているのは陶磁器が中心。展示されている民芸品はわが国の国土が生み出した伝統的工芸品で、世界的にも高く評価されている。民芸とは民衆的手工芸の略で、日本工芸館は現存している民芸の技術保存と育成、普及にも努め、庶民生活の美化運動にも力を入れている。古丹波、古瀬戸など各地の陶磁器を中心とするさまざまな民芸は、どれも無名の工人が美を追及するためではなく、あくまで実用品として作ったものである。結果的にそこに巧まざる美が生み出され、人の心が豊かだった時代を感じさせる。ここに展示されている陶磁器には庶民の生活の匂いがする。食生活で使う茶わん類、食物などを貯蔵する壺、甕など、昔はどこの家庭にもあった品々である。これらの生活用具は実用性を追求しており、健康美があふれている。ほかに讃岐の嫁入りふとんや讃岐の絵絣なども展示されており、郷愁を感じさせられる物が多く、日本の伝統工芸の奥の深さと幅の広さを示している。
【参考】小石原焼(福岡県東峰村大字小石原)と民芸運動
民芸運動は、大正時代後半に柳宗悦(1889~1961)が中心となって始まった工芸をめぐる運動である。この運動を担う主要な団体が二つ存在し、ひとつは柳を会長として1934年(昭和9年)に組織された日本民芸協会であり、1936年(昭和11年)に開設された日本民芸館は、現在もその活動の拠点となっている。いまひとつは、民芸協会の会員でありながら柳の考えに反発し、協会を脱退した三宅忠一が中心となって、1959年(昭和34年)に組織された日本民芸協団であり、大阪に開設された日本工芸館を活動の拠点としている。小石原焼はこの二つの民芸運動にともに深く関係している。
柳によれば、民芸とは、(1)自然の美(2)伝統の美(3)素朴な美(4)機能美をもち、(5)健康的で、(6)大量生産され、(7)安価であり、(8)無名性をもった工芸品とされる。
民芸運動による小石原焼の再発見の経緯は、直接的ではなく、むしろ大分県日田市の小鹿田(おんた)を通してであった。柳は、1927年(昭和2年)、久留米の荒物屋で小鹿田焼を初めて目にし、その美しさに惹かれ、4年後の1931年(昭和6年)、小鹿田を訪れている。その際、柳は「日田の皿山」という文章を書いているが、この文章中の小鹿田焼の開窯に関する記述で「小石原」の名が記されている。(小鹿田焼の始まりは、小石原焼の陶工が小鹿田に移り新皿山を開いたとされます。)1933年(昭和8年)には運動の初期からの中心人物であり、後に倉敷民芸館の館長を務めた外村吉之介が小石原を訪れ、「小石原から小鹿田へ」という文章を残している。運動同人は、民芸の対象となりうる各地の窯場(窯業地)のことを特に「民窯」と呼んだが、1934年(昭和9年)の「工芸」39号で全国の民窯を紹介する「今も続く日本の民窯」という特集を組んでおり、小石原もその一つとして紹介されている。また、1944年(昭和19年)月刊民芸第59号の「現代日本民芸総覧」でも取り上げられており、小石原が運動にとって関わりのある産地として確立していったと思われる。小石原の人々がこうした関係を自覚するのは、1954年の柳宗悦、河井寛次郎、濱田庄司そしてバーナード・リーチの来村の時からだろう。リーチはイギリスの陶芸家で、民芸運動との関係はきわめて深い。柳とは1909年(明治42年)エッチングの講師として来日し、白樺派の同人と交流を持ってからの友人であり、また陶芸の道に進んでからも、イギリスで濱田とともに窯を築くなど、運動の同人にとっては終生の友人であった。リーチは、1954年(昭和29年)4月、小鹿田に約3週間滞在し、作陶を行っており、この際に小石原の陶工が小鹿田にリーチを訪ねて交流があった。また、5月には柳らと小石原を訪れており、当時67歳と既に陶芸家として大きな名声を得ていたバーナード・リーチの来村は、マスコミで大きく取り上げられ、小鹿田だけでなく小石原の知名度が高まる大きな契機となった。
小石原に大きな影響を与えたのは、柳宗悦らによる民芸運動の母体たる「日本民芸協会」ではなく、三宅忠一(1900~1980)が設立した「日本民芸協団」という、もう一つの民芸運動の実践である。三宅忠一は、柳の著書「工芸の道」(1928)に感銘を受け、1935年(昭和10年)頃から民芸運動に参加し、戦後北海道の民芸の調査を柳に任されるなど、日本民芸協会の中心的メンバーの一人になっていく。また、大阪の料理店スエヒロ本店の店長になるなど実業家でもあった。そしてその大阪に地盤をおき、精力的に運動を推進していった。1951年(昭和26年)には、日本民芸協会大阪支部の運動拠点として日本工芸館を建設し、1955年(昭和30年)には、大阪支部から発展的解消をとげた大阪民芸協会の機関誌として「日本の工芸」を発刊している。しかし、このような精力的な活動を続けてきたにもかかわらず、三宅は1959年(昭和34年)柳らとの考え方の相違を理由に、日本民芸協会を脱会し、新たに同調者を募り、日本民芸協団を設立する。三宅は、戦後の民芸運動は個人作家中心に進んできており、それが民芸本来の工人の仕事に禍(わざわい)している。と批判し、民芸運動は作家の関与を排して工人の生産活動を助成すべきだと主張していた。その意見が協会に受け入れられないので、自身の信じる活動を推進するには、協会と袂を分かたざるを得なかった。という。そして分立後も柳理論の正しい実践者であることを標榜しつつ、その経済的能力を精力的に発揮して、産地の生産を振興する方策を次々と実行していった。三宅は、民衆の生活を直接的に救済するものとして民芸運動をとらえていた。日本民芸協団は、新たに建て直された大阪の日本工芸館を拠点として、全国で50を超える支部を持つ大きな組織となった。そして三宅が最も精力的に自らの思想の実践を試みていったのが小石原だった。1991年当時の小石原焼陶器協同組合長梶原藤徳は、現在の小石原焼の拡大を「景気」とした上で、その景気を生んだ要因として次の四つをあげる。①1960年(昭和35年)三宅によって日本工芸館小石原分館が設立されたこと。②工芸館と陶器協同組合による発案で「民陶祭」が開催され、現在も続いていること。③1975年(昭和50年)通産省の伝統的工芸品に指定されたこと。④窯元の後継者たちが「作れば売れる」という時代が過ぎ、本気になって仕事に取り組んでいること。これらの要因のうち、①から③までが、直接または間接に三宅の実践によるものである。離反した協会側が小鹿田をその「聖地」のように持ち上げるのに対して、三宅は小石原を自らの手で育てあげていこうという考えもあったと思われる。そして三宅は、大物から民芸的な小物への転換など啓蒙的な働きかけと同時に、私費を投じて経済的な支援も行っていった。小石原を愛し、発展を願う三宅の情熱がなければ小石原焼の今日はなかったであろう。
【参考】大阪・永楽町スエヒロ本店
530-0002大阪市北区曽根崎新地1-11-11/050-5788-2758
創業者・上島歳末が、明治43年(1910年)大阪の北新地にて洋食レストラン弘得社として創業。その後、炭火で焼き、醤油とメンドテ-ルバタ-を掛けるスエヒロスタイルのステ-キを主とした牛肉専門店として営業し、昭和27年先代店主三宅忠一により”しゃぶしゃぶ”を考案して以来世界的にスエヒロの名を広めてまいりました。以後"スエヒロのしゃぶしゃぶ"として商標登録も取得し、世界に誇れる日本の代表料理のひとつとして、当店から広がっていきました。近松門左衛門の悲恋情話「曾根崎心中」の舞台として有名な北新地。スエヒロはここを発祥の地に百余年、すき焼きとビフテキで全国に名をとどろかせ、今も多くの食通を喜ばせています。 スエヒロ本店が現在の地に建ったのは昭和26年、木造三階建てで店内はいわゆる“民芸調のスエヒロ”を最初に設立したものでした。これは民芸運動に傾倒していた先代店主三宅 忠一の影響によるものであり、以降のスエヒロのイメージを決定づけるものにもなりました。使用する牛肉は極上の黒毛和牛を職人自らが厳選して仕入れております。また、心血を注いで永年守り続けている味「ごま酢」が絶妙のハーモニーを醸し出します。これこそ多くのファンを魅了する元祖「しゃぶしゃぶ」だと自負しております。世界的に有名な棟方志功氏と先代店主は古くから交友が有り、その関係上店内には版画や絵画が数多く展示してあります。氏の作品は、民芸品ととても相性が良く、お食事をされる方々は、お料理と器類と絵画の3つをお楽しみいただけます。また、メニュ-や包装紙に至るまでスエヒロ本店では全て棟方志功氏の作品を使用しております。
・・・一度、食事に行きたいものです。