久しぶりの大阪FW(4) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・ミナミに来たら必ず訪れる場所。


◆法善寺/大阪市中央区難波1-2-16

浄土宗の寺院。山号は天龍山。本尊は阿弥陀如来。そのほか水掛不動(西向不動尊)や金毘羅堂などがあり、特に水掛不動は有名である。当寺院は千日念仏を行ったことから俗に千日寺と呼ばれ、千日前は当寺院の門前に由来する。1637年(寛永14年)に山城国宇治郡北山村より現在地に移り、琴雲の開山により建立された。他説では、同年に現在の大阪市天王寺区上本町8丁目より現在地に移り、1644年(寛永21年)から千日念仏回向が始まったという。



ほう1

法善寺横丁

江戸時代、参拝者や芝居小屋に向かう客を目当てに茶店や露天が境内にできたのが始まりである。明治16年(1883)には織田作之助の小説で一躍有名になった「夫婦善哉」が、そして明治26年(1893)には同じく同小説で紹介されている「正弁丹吾亭」が創業している。また、法善寺横丁は昔、極楽小路と呼ばれていて、法善寺横丁と呼ばれるようになったのは、昭和15年(1940)に長谷川幸延が「オール讀物」で「法善寺横町」という小説を発表したことに始まる。幅が約2.7メートル、長さがおよそ100メートル弱の隘路である法善寺横丁が今に至るまで、多くの落後家や文化人、芸人に愛されてきたのは、かつて法善寺横丁に金沢亭と紅梅亭という寄席があったことと、左の写真を見てわかるように、肩と肩が触れ合うほどの狭い石畳の路地の風情がその理由と考えられる。(2つの寄席は後に吉本興業創業者の吉本吉兵衛・せい夫婦によって買収され、金沢亭は寄席“花月”に、紅梅亭は料亭“花月”になるが、のち閉館する。)また、法善寺横丁には織田作之助の句碑やヒットした「月の法善寺横丁」の歌碑など、この地に由来のある文学碑が建てられている。今では休日の昼間は、お不動さん隣の夫婦善哉へ入る人が多く、夜になると料理屋、洋酒バー、串カツ屋、お好み焼き屋に入る人で毎夜横丁を賑わしている。少々金額が張る店から、お手軽な店まで色とりどりである。その法善寺横丁も平成14年(2002)9月に旧中座からの類焼と、その後の火災という困難に直面するが、それらを乗り越え今では老若男女をとわず沢山の人がこの界隈を賑わし、大阪を代表する観光名所となっている。

【参考】平成14年(2002)9月9日(月)午前3時過ぎ、旧「中座」の解体工事現場で、大阪市中央区道頓堀1丁目の旧劇場「中座」が爆発音とともに炎上し、鉄筋コンクリート造りの地上4階地下1階の同建物延べ約3千平方メートルがほぼ全焼し、隣接する南側の「法善寺横丁」の19店舗にも延焼、計約950平方メートルが焼けた。さに復興のめどがついた平成15年(2003)4月2日(水)午前10時55分頃、法善寺横丁の天ぷら店からの出火で2度目の火災が起こり、横丁路地南側の17店舗延べ約435平方mが焼けた。幸いにして横丁の中心にある法善寺は辛うじて難を逃れた。復興に際し、狭い横丁の路地が現行の建築基準法の規制にかかり、再建にあたっては現状2.7メートルの路地幅を4.0メートルに広げ る必要があったが、これまでの情緒ある風情を残そうとする府民、文人、芸人による運動や30万人を超える人々の署名活動もあり、特例を適用して被災前の狭い道幅を維持したまま再建されることになった。営業を希望する全店舗が出揃たのは、1度目の火災から1年半後の平成16年(2004)3月27日であった。


ほう2


・・・いつも気になりながら素通りしてしまっていたミュージアム、


◆【上方浮世絵館】

542-0076大阪市中央区難波1-6-406-6211-0303


ほう3


第52回【町人の文様縞】

上方浮世絵館では、江戸時代の大阪で制作されていた浮世絵を展示しています。大阪の浮世絵は、歌舞伎役者たちを描いたものが多く、道頓堀を中心とした芝居小屋をにぎわせた人気役者の姿を見ることができます。人気の役者たちは、浮世絵に描かれるとともに最新の流行を発信します。舞台に用いた衣裳のデザインは、ファンたちによって着物などへ取り入れられ、庶民の流行へと広がっていきます。浮世絵はその流行発信の担い手でもありました。そこで今回の展示では、役者たちの衣裳の文様に注目し、なかでも町人の文様の代表格である【縞】文様を特集します。縞文様は、直線だけでなくさまざまな線によって構成され、その組み合わせはバリエーションが多く、豊かなデザイン性を持っています。当時の人々の着物のおしゃれを、ぜひ浮世絵から見つけてください。


・・・時間があれば、浮世絵体験もしたいけれど、今日は見学だけです。


ほう4


◆国立文楽劇場

542-0073大阪市中央区日本橋1-12-1006-6212-2531

昭和59年(1984)、文楽を中心に広く上方伝統芸能の保存、振興を図るために、国立文楽劇場は大阪、日本橋の地に開場しました。以来、文楽のほか歌舞伎、舞踊、邦楽、大衆芸能などの各種の公演を通じて多くの皆様に足をお運びいただき、お蔭様で2014年、開場30周年を迎えることができました。来年3月まで行う「国立文楽劇場開場30周年記念公演」は、名作、話題作が揃う文楽公演、斯界の第一人者が集う舞踊公演や大衆芸能公演、稀少な内容の特別企画公演など、多彩なラインアップとなっております。

文楽は、1955年に重要無形文化財に指定され、ユネスコ無形文化遺産保護条約の無形文化遺産にも登録されています。そんな文楽は、太夫による語り、三味線による音楽、人形遣いという構成で成り立っています。話は時代物(歴史上のお話)と世話物(お話が作られた当時の事件などを題材とした話)に分けられます。

【参考】橋下市長文楽劇場の目標未達成に「残念だが補助金減額」

橋下徹大阪市長は2014年1月27日、文楽協会が市の補助金3900万円の満額支給の基準となる国立文楽劇場の有料入場者10万5000人を達成できなかったことについて、「よく頑張って10万人を超えたが、目標設定なので、残念だが減額だ」と述べた。同劇場の有料入場者数は26日の千秋楽で計10万1204人(速報値)。満額ラインにわずかに届かず、今年度の補助金は約730万円減額される。橋下市長は「劇場が全部決めてマネジメントできてない。頑張れば客が増えることが分かったが、(協会が)演目を決められない」と指摘した。その上で、「大阪でしか見られない演目をやれば観客が増える。東京と大阪で同じのをやるのは役所的だ」と話した。

【沿革】文楽の公演は、東京が国立劇場の自主公演になったが、大阪では文楽協会が朝日座(旧道頓堀文楽座)を借りて、定期公演をしていた。もともと朝日座は、花道付きで2階席のある1,000人収容の大劇場で、文楽上演には大きすぎる。そのうえ、借りている事務所や衣裳部などの家賃を払わねばならず、さらに公演ごとに劇場使用料が上積みされ、出費がかさんだ。平成の文楽を担う人間国宝・7代竹本住大夫は、当時40歳代。9代文字大夫を名乗っていたが、この時代の背景を次のように回想している。「昭和45年の万博が終わりましたあたりから、また世の中が大分変ってまいりました。高度成長がのぼりつめた感じで、やがてオイルショック、都市の構造の問題やなにやら変化してまいりまして、これは文楽に限らずそうなんですが、劇場にお運び下さるお客様の数が減り出しました」(「言うて暮しているうちに」)文楽が人々の頭から忘れられ、取り巻く状況が悪くなっていった。そこで「なんとかして、大阪にも文楽専用の国立劇場を」との声が高まったのは当然の成り行きであろう。まず文楽協会から国に要請が出され、続いて昭和49年(1974)、大阪府・大阪市・大阪財界が国に要望書を出して、強い誘致運動を起こした。中心になったのは、大阪商工会議所会頭の佐伯勇近鉄社長、弘世現日本生命社長、大島大阪市長らであった。 建設地の選択は、時間がかかった。あちこち候補地が挙げられたが、ただの構想止まり。そこでまず土地を確保することが第1と、大阪市南区(現中央区)日本橋の旧高津(こうず)小学校跡地を決めた。ところが、文化庁はその予定地が狭くて、木も植えられないし、駐車場も作れない。近所には環境的に好ましくない建物があり、目の前には高速道路が通っているとして、賛成しない。そこで地元側は、植村文楽軒が寛政の昔、初めて大阪に出て操り浄瑠璃小屋を開いた場所の南側に当たり、文楽にとって歴史的な場所であることを力説。駐車場も必要ないし、周辺の環境のことを言い出したら「大阪では劇場はできない」と説得した。これが効を奏して、昭和52年(1977)に文化庁に国立劇場の設立準備調査会が設置されて具体的な検討に入り、翌昭和53年(1978)には「国立文楽劇場」の基本構想が出される。最大の問題であった建築用地は、地元の主張通り大阪市日本橋の旧高津小学校跡地に決定し、昭和56年(1981)から建設工事が始まったのである。しかし、地元・大阪市が文化庁に「大阪」という地名を入れた劇場名を要望していたこともあって、劇場名はなかなか決まらなかったようだ。「国立文楽劇場」の名前が正式決定したのは、開場する前年―昭和58年であった。文化庁が地名を選ばず、文楽のための劇場という方針を貫いたのは一見識であった。着工して3年後の昭和59年(1984)1月31日、大阪・日本橋に待望の「国立文楽劇場」が完成し、3月20日開場記念式典をあげる。劇場名に文楽という名称が復活したのである。昔を振り返れば、竹本義太夫が道頓堀に竹本座の櫓を挙げたのが貞享元年(1684)であったから、あれからちょうど300年という区切りのいい年でもあった。敷地は4、464平方メートルで、地下2階、地上5階の鉄筋コンクリート造り。黒川紀章氏の設計であった。2階にある劇場は、客席数が731席。舞台は、間口9間4尺(17・6メートル)、高さ3間2尺(6・1メートル)、奥行10間1尺(18・5メートル)で、東京の国立劇場の小劇場より客席、舞台とも一回り大きかった。また3階に小ホールのほか、1階に展示室を設けて、人形の首など文楽ゆかりの品々を親しめるようにしたほか、後継者養成の研修室・資料室・図書閲覧室なども完備した。国立文楽劇場ができた59年当時の文楽3業の技芸員は、大夫が人間国宝の4代竹本越路大夫、4代竹本津大夫を含めて26人、三味線が18人、人形は昭和52年(1977)に人間国宝になった吉田玉男をはじめ35人の計79人であった。


・・・まだ、一度も入ったことがありません。ぜひ機会を見つけて、と思っています。


ほう5


2012年、国立文楽劇場前に『二ツ井戸』が復元されました

高津地区においては、『二ツ井戸』という歴史的にも由緒ある井戸が江戸時代から存在しておりました。この井戸については、寛政8年9月に発刊された「攝津名所圖會」(せっつめいしょずえ)に記載されているほか、明治5年の町名改称においては、道頓堀川東端から高津入堀川までの東西300mほどの両側に立ち並ぶ町並みが「高津五右衛門町」と称されていたのを「二ツ井戸町」(現在の道頓堀一丁目東)に改められたという経過もあり、現在でも「二ツ井戸町」という町会名になっているほどです。このような由緒ある井戸ではありますが、明治22年の大阪市都市計画による道路拡張の際、交通支障をきたすということから埋没されてしまいました。その後、この有名な井戸を復元しようと、この地区の旧家であり有名な粟おこし屋の、津の国屋清兵衛氏が自家前にモニュメントを作り昔の面影を残しておりましたが、この井戸についても戦災に遭いなくなってしまいました。高津地区は、歴史・文化を受け継ぎ趣と人情を醸しだすとともに、文楽の発祥の地といわれ、織田作之助の「夫婦善哉」にも重要な舞台として登場するなど、繁華街・商業地区・都心居住空間などの魅力を内包した大変興味深い町であります。また、平成17年度からは、誰もが安全・安心に暮らせる都心居住の町をめざして、高津地区のまちづくりを積極的に進めておられます。この度、この「二ツ井戸」を復元することで高津地区住民の方々の地元を愛する思いを醸成するとともに、新しく転入してこられた住民の方々にも高津地区の魅力を知っていただくこと。そして、高津連合内には、市歌にも歌われた「高津宮」文化遺産の文楽を公演する劇場もあり、そこに「二ツ井戸」が加わることによって地元の人々の愛着が増し、近隣の繁華街とは少し違ったまちに発展するのでは、との思いから復元されました。平成24年4月5日(木)10時から、国立文楽劇場前において、史蹟『二ツ井戸』が復元されたことに伴う除幕式が開催されました。たくさんの地域の方々や区長も参加し、盛大に執り行われました。


BODYMAKERコロシアム

556-0011大阪市浪速区難波中3-4-3606-6631-0121

バレーボール・バスケットボール・テニス・ハンドボール・バドミントン・卓球・柔道・剣道・体操・ボクシングなど各種スポーツの競技場・道場のほか、多目的ホールや会議室もある「大阪府立体育会館」。昭和27年(1952)に飛行機の格納庫の骨組みを移送して建設されたが、昭和60年(1985)に全面改装、昭和62年(1987)にスポーツセンター機能を備えた体育館としてリニューアルオープンし、現在に至る。ヨガや、エアロビクス、ウォーキングエクササイズなどの教室も開催。平成24年4月1日から大阪府立体育会館の愛称が「BODYMAKERコロシアム」となりました。体育及びスポーツ競技をはじめ、文化的な集会や催物にもご利用いただくことのできる近代的な各種機能を備えた大阪府のセンター的スポーツ施設です。


・・・最後の目的地に向かいます。