久しぶりの大阪FW(3) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・はじめに「おことわり」しておきます。小さなことでも素通りできない性格で、なかなかFWが前に進みません。どうしても説明・解説が多くなり、そのぶん画像が少なくなっていますので、我慢してお付き合いください。


旧浪花座の前に建てられている「竹本座跡」の碑/大阪市中央区道頓堀1-8

初代竹本義太夫が貞享元年(1684)人形浄瑠璃の小屋として開いたものである。近松門左衛門(同頂参照)を座付作者として迎えコンビを組み、興行的にも大成功をおさめた。しかし数年で経営を竹田出雲にゆずり、義太夫は太夫として専念し、ますます人気を高めることになった。その後義太夫が、そして近松が没したがそれでも出雲の努力で繁盛した。出雲の死後は人形浄瑠璃も衰退し、明和4年(1767)遂に80余年の歴史を閉じた。当時は竹本座・中の芝居・角の芝居・角丸の芝居・豊竹座・竹田の芝居と華やかな舞台を競い合った。その後は歌舞伎の小屋となり、大西の芝居・筑後の芝居・戎座・浪花座と続き浪花座も2004年7月2日よりフードテーマパーク「サミー戎プラザ」として、リニューアルオープンした。江戸時代より、芝居小屋として親しまれた『道頓掘五座』の内、3座までが、「食」関連の施設に生まれ変わった。今や、道頓堀は巨大看板と、ラーメン・たこ焼きの町と化した感がある。




狸の阿波木偶、道頓堀の顔に人形師・多田さん(徳島市)制作

狸の阿波木偶が大阪・道頓堀の新たなシンボルに-。大阪名物の人形「くいだおれ太郎」が入り口に立つことで知られる中座くいだおれビルに2013年7月、人形師の2代目人形健こと多田弘信さん(52)=徳島市川内町宮島本浦=が制作した狸の木偶が飾られる。道頓堀に伝わる芝居好きの狸伝説にちなんだ企画で、道頓堀川が開削されて2015年で400周年を迎える記念事業の一環。中座くいだおれビルの関係者でつくる「道頓堀のお狸様の会」によると、ビルが建つ場所は大阪有数の芝居小屋「中座」の跡地で、中座には狸にまつわる伝説が残っている。淡路島から人間に化けて芝居を見に来ていた芝右衛門狸が正体がばれて殺され、そのたたりで客入りが悪くなったものの、手厚く祭ったところ活気を取り戻したという内容。実際に中座には古くから狸のほこらがあり、役者たちは「化ける神様」「人気の神様」として参拝していた。営業不振や老朽化で1999年に閉鎖した中座が取り壊され、祭られていた芝右衛門狸は故郷・淡路島の洲本八幡神社に移された。一方、現在のビルの地下にも新たにほこらが作られている。ビル関係者は狸伝説にあやかり、「400周年を前に、停滞気味の道頓堀に往時のにぎわいを取り戻せないか」との木偶づくりを企画。2012年2月、ビル関係者の知人を通じて多田さんに制作を依頼した。多田さんによると、動物の木偶は非常に珍しい。見本がないため、動物園でスケッチしたり、写真を参考にしたりしながら1年がかりで仕上げた。完成した狸の木偶は2013年6月4日に洲本八幡神社で関係者に引き渡され、大阪からは「くいだおれ太郎」の人形が出迎えに来る。狸の木偶は、7月の中座くいだおれビルの開業4周年に合わせ、1階ホールに展示。くいだおれ太郎と並んで新たな「道頓堀の顔」となる。「道頓堀のお狸様の会」の柿木央久(てるひさ)理事長(46)は「中座に祭られた芝右衛門狸と同じように、狸の木偶が道頓堀を活気づけてほしい」と期待している。

【参考】道頓堀のお狸さま

むかしむかし、淡路島に芝居好きの狸がおったそうでおます。むかしは芝居の本場いうたら大坂の道頓堀でおまして、江戸が三座、道頓堀は五座というほどにぎわっておったそうでおます。道頓堀五座のなかでも、「中の芝居」と呼ばれた小屋がいちばん古いうちのひとつでおまして、そこへ淡路から狸さんが芝居を見にやってきたのでおました。人間に化けて、木の葉をお金に替えて毎日通っておったところが、そのうちばれて殺されてしもうたそうな。ところが、それからというもの中の芝居がはやらんようになってしもうた。ある晩、片岡仁左衛門、初代の仁左衛門さんでおますが、その夢枕に狸が立ったそうでおます。わしを中の芝居に祀れと。ほんで、言われたとおりにお祀りしたらまた賑わうようになったというおはなしでおます。淡路から芝居好きの狸さんが大坂へやってきたというお話には、少しずつ違うのがいろいろあるそうでおまして、道頓堀の話はそのうちのひとつなんでおます。




◆浮世小路/大阪市中央区道頓堀1-7-22

道頓堀と法善寺横丁を南北に結ぶ人がやっと一人通れるほどの細い小路。かつての浮世小路を模してビルの壁には様々な店が描かれていたり、仕掛けが施されている。新たに観光のために路地裏をつくろうというものではなく、江戸時代に存在した「浮世小路」と呼ばれる路地裏を現代に蘇らせ、大阪らしい繁華街の要素をとことん盛り込んだものだという完成したのは、2008年。街並みを再現したのは企画プロダクションを経営し、若い頃はテクニカルイラストレーター、そしてTV番組や催し物などを多数、企画・演出する敏腕プロデューサーの吉里忠史さん。もともとこの計画は、吉里さんの長年念じて来た夢の夢であり、2002年(平成149月9日未明の中座の火災に伴い、法善寺横丁に被害が出た折に、その願いはさらに高まったそうである。大阪人の“ふるさと回帰”として、「浮世小路」を江戸から昭和初期のムードに復元したい・・・との思いで資金集めに回り、地元商店会メンバーらの協力も取り付け、レトロな街並みを蘇らせた。小さな神社は文字通り小さな「一寸法師」を祀ったもので、その起源は御伽草子で、室町時代の後期に成立した話のようだが、一寸法師が椀に乗って、箸の櫂を操り、京を目指した場所が「難波の浦」という伝承から、現在の道頓堀川が一寸法師との関わりのある土地という。




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なにわ名物いちびり庵道頓堀店

542-0071大阪市中央区道頓堀1-7-21中座くいだおれビル1階06-6212-5104

「ミゼット物語」1957年から1972年まで生産されたミゼットのカラー写真集です全34ページの中には懐かしいミゼットの写真やカタログ、エピソード、そして名曲の「みんみんミゼット"の楽譜」までが詰め込まれています。通常モデルだけでなく郵便局用集配車、タイのタクシーの写真も記載されたミゼットファンにはおすすめの商品となっております。道頓堀店・店頭にはミゼットが、店内壁面にはパネル写真が掲示されております。

【参考】株式会社せのや会社沿革

豊臣秀吉、大阪城築城の頃(16世紀末)本家せのやが紙問屋として妹尾氏により大阪二つ井戸にて創業。明治になり、現在の戎橋筋にて欧米文具の店を開く。のちに、本家没後「分家せのや」のみ紙文具店として存続。戦後、同地において「せのや文紙店」として復興、営業を続ける。昭和30年代より一部ルームアクセサリー、工芸品、進物用品の取扱いを開始。昭和34年、現在の店舗ビル(鉄筋3階建)に新築。昭和49年、店舗を全面改装、GIFTPLAZA SENOYAと店名も改め、ファンシー・バラエティショップに業態転換、同時に法人化。昭和52年、初代社長、野杁金之助が辞任、現社長、野杁育郎が就任。同年11月2号店(鴻池)オープン、54年3号店(東岸和田)、55年4号店(おおとり)、58年5号店(新金岡)オープン。昭和59年、企画室ショップメーカーズ開設。同年、10月ファッション雑貨店パティパン(堺東)をオープン。平成元年11月、戎橋店を全面改装IKURO by SENOYAと店名変更。平成5年、なにわ名物の商品販売を開始、新感覚の大阪観光みやげの販売をはじめる。平成8年「なにわ名物開発研究会」の設立に参画、代表幹事に就任。新なにわ名物を企画・販売する「なにわ名物事業部」を新設。同年6月、南港・ATCオズに「な にわ名物開発考社」を、11月千日前ワッハ上方内に「上方演芸笑店」をオープン。平成13年12月「なにわ名物いちびり庵」千日前店オープン。14年4月本店改装「なにわ名物・いちびり庵」、大阪みやげ専門店と茶房なにわ文庫を展開。同7月「いちびり庵天保山店」をマーケットプレース・なにわ食いしんぼ横丁にオープン。15年4月同処に「港町ミルクホール」開業。16年4月、セラヴィスクェア中座に「道頓堀店」オープン、9月、「アメリカ村店」オープン。平成20年7月「戎橋本店」リニューアルオープン。同10月「なんば店」をオープン。21年7月、「道頓堀店」が「中座くいだおれビル」として50坪に拡張リニューアル。


◆道頓堀「角座」

「角座」の名称は、「角の芝居」と呼ばれた江戸時代に遡ります。「角座」はかつて、浪花座、中座、朝日座、弁天座と共に、「五つ櫓」若しくは「道頓堀五座」と呼ばれ、1960年~70年代には、上方演芸の殿堂として栄えました。その後、「角座」の名称は、松竹(株)の直営映画館(大阪市中央区)や弊社直営の劇場「B1角座」(大阪市中央区)に引き継がれていましたが、2008年の角座ビル(大阪市中央区)の閉館と共に、消滅致しました。この由緒ある名称を、日本のエンタテインメントの中心である東京・大阪で復活させ、新たな歴史をスタートさせたいと考えております。この劇場から、日本を代表するエンタテインナーが続々と輩出され、文化の発展に寄与できるものと考えております。

2011年5月14日 新宿角座 開業



2013年7月28日 DAIHATSU MOVE 道頓堀角座 開業


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道頓堀川万灯祭2014

道頓堀川の水辺遊歩道「とんぼりリバーウォーク」では、2014年7月1日(火)から8月31日(日)まで、『道頓堀川万灯祭2014』が開催されます。今年は深里橋(四ツ橋筋)~日本橋(堺筋)までを、1200灯以上の提灯で彩ります。連日19時から26時まで点灯。観覧無料。


戎橋

元和元年(1615年)、豊臣氏が大阪夏の陣で滅んだこの年に道頓堀川が完成し、ほぼ同時に町衆たちによって「戎橋」が架けられました。橋が完成した時、人々は大いに喜びました。というのもこの橋筋は、今宮村の戎神社へとつながる重要な参道であったからです。大阪の商人にとって、商売繁盛の神様・今宮戎にお参りすることは、昔も今も変わらない大事な行事でした。人々は縁起をかつぎに「えびすばし筋」を通りました。「戎橋」の名前の由来は「戎」の名が表すとおり、今宮戎神社の「戎」からつけられたという説のほか、正月になるとこの橋で西宮戎神社(兵庫県)のお札が配られたからという説もあります。いずれにせよ、商売繁盛のえべっさんに由来する、めでたい名前であることは間違いありません。ミナミの活気が渦巻く戎橋を、大切な町橋として維持管理してきたのが町衆です。戎橋は、元禄7年(1694年)から明治11年に鉄橋になるまでの184年間、13回にわたって修理や架け換え工事が行われています。こうして大事な橋は変わらずに維持されてきましたが、橋の名は何度も変わりました。芝居興行全盛の元禄時代初期には、人形浄瑠璃が大人気だったことにちなんで「操り橋」と呼ばれ、元禄4年(1691年)には再び「戎橋」という名に戻っています。ところが、明治維新直前、幕府は「永成橋」という名に改めます。でも、その名前に人々はなじまず、一時「猿橋」と呼ばれたりもしましたが、結局、明治3年に長年慣れ親しんだ「戎橋」の名が復活。それ以後、この名が変わることなく受け継がれてきました。現在の戎橋は、老朽化を理由に2007年に建て替えが行われ、大正時代の橋の一部分を保存しながら、中心部は幅が18メートルもある円形の広場や川沿いの遊歩道へ続くスロープなどが設けられました。橋の裏側のLED照明が川面に光の輪を映しだします。完成を記念して、ミナミの町衆は、橋のたもとに2つの銘板をとりつけました。南詰の方には、戎橋にちなむ大阪川柳の作品が紹介されています。北詰の方には、文豪谷崎潤一郎の「蓼喰う虫」の挿絵で有名な大阪市出身の洋画家・小出楢重が戎橋を描いたイラストを紹介しました。この橋が、大切な人との出会いや惜別、楽しかったミナミ観光人々の心に残る場所として、新たな歴史を刻んでほしいと願ってとりつけられました。

【参考】小出楢重と谷崎潤一郎小説「蓼喰ふ虫」の真相春風社(2006/10/16)

画家・小出楢重と作家・谷崎潤一郎のコラボレーションによって生まれた名篇『蓼喰ふ虫』。ここには小出家にまつわる数々の謎が隠されていた…。興味深いエピソードとともに孫が明かす、洋画家・楢重の人と真実!二人の出会い、原稿の執筆過程、挿絵の方法を解明する谷崎研究家による論考を併録。

01章 谷崎潤一郎「蓼喰ふ虫」の構造(小出龍太郎)

02章 「蓼喰ふ虫」と小出家(小出龍太郎)

03章 谷崎は小出楢重をいつ意識したか(明里千章)

04章 「蓼喰ふ虫」挿絵の方法(明里千章)

05章 「蓼喰ふ虫」執筆状況と挿絵をめぐって(荒川明子)


◆阪町/大阪市中央区千日前

豊臣時代に上町台地の西に仁徳天皇を祀る御神体を移し「高津」と名付けられでした。上町台地を境に東が『東高津村』で西が『西高津村』阪町は『西高津村』に入ります。この頃からこの一帯は少しずつ町へ変わっていきます。そして阪町誕生します。どうやら、京都の伏見から移住してきた人々が命名したうです。移住先は玉造で名前は『伏見坂町』。その後、江戸時代中頃に現在地に移住して『元伏見坂町』になり前を省略して『坂町』に。『坂』は「土に反る」といわれ忌字としたので『阪』を使ったそうです。「大阪」も元は「大坂』でした。江戸時代『町』と『村』は門で区切られていたそうで門が黒く塗られていたのが、黒門市場の黒門です


◆丸福珈琲店・千日前本店

542-0074大阪市中央区千日前1-9-106-6211-3474

道頓堀・法善寺といった”こてこて大阪”の中心、ミナミのど真ん中に千日前本店があります。1階2階合わせて150席。2階は約30名様収容可能で、平日に限り会合や2次会などの貸切のご予約をお受けいたします。田辺聖子著「薔薇の雨」で小説の舞台として登場したりと、昔から老若男女世代にかかわらず珈琲好きのお客様に愛されてまいりました。アンティークな調度品に飾られたレトロな空間でゆったりとした時間をお過ごしいただけます。千日前本店のおすすめメニューの、銅板でやきあげる懐かしい味と香りのホットケーキは、料理研究家の小林カツ代氏も愛して下さる丸福オリジナルレシピです。オーダーを頂いてから1枚1枚焼き上げるホットケーキにたっぷりのバターと蜂蜜・メープルシロップでお召し上がり下さい。

【参考】田辺聖子著「薔薇の雨」では、小説の舞台となり、主人公が丸福珈琲店を訪れるところから、ストーリーが始まります。年下の男との恋に落ちて5年。新鮮さがいつか馴れ合いになり、ときめきは穏やかな親近感に変わった今、留禰は別れが近いと知る。もはや止めることができない恋の終わりを受け入れようとする女、その心に溢れくる甘やかな悲しみを描いたまさに恋愛小説の傑作。

田辺聖子[タナベセイコ]1928(昭和3)年、大阪生れ。樟蔭女専国文科卒業。’64年『感傷旅行(センチメンタル・ジャーニィ)』で芥川賞、’87年『花衣ぬぐやまつわる…わが愛の杉田久女』で女流文学賞、’93年(平成5)年『ひねくれ一茶』で吉川英治文学賞を、’94年菊池寛賞を受賞。また’95年紫綬褒章、’08年文化勲章を受章。小説、エッセイの他に、古典の現代語訳ならびに古典案内の作品も多い


・・・田辺聖子文学館(大阪樟蔭女子大学)にも行かなあかんし、読まなあかん本もいっぱいあるし、ほんまえらいこっちゃで。