・・・今回は、特に「なんば」の栄枯盛衰を中心に紹介します。
◆【道頓堀パチンコ博物館】◆
542-0077大阪市中央区道頓堀1-7-24四海樓道頓堀店地下1階/06-6484-2711
道頓堀のパチンコ店「四海樓道頓堀店」地下に2010年7月16日、歴代のパチンコやスロットの遊戯体験ができる施設「道頓堀パチンコ博物館」がオープンした。運営するのは、パチンコ業やレンタルホール業などを展開する光明興業(難波4)。「パチンコの原点をふり返り、本来のパチンコの面白さを再認識していただきたい。そして、パチンコのファンがもっと増えて欲しい」(同社)との思いから開設した。40坪ほどのスペースに、パチンコ14台、スロット6台を展示するほか、パチンコの歴史を紹介するパネルや、道頓堀周辺の過去の写真も展示。現在のパチンコゲージの元となった1948(昭和23)年登場の「正村ゲージ」をはじめ、10年前にヒットしたスロット「大花火」など、パチンコやスロットの歴史を実機とともに見ることができる。展示しているパチンコ、スロットは無料で遊戯体験ができる。利用には「道頓堀パチンコ博物館友の会」への会員登録(無料)が必要。
・・・「四海樓道頓堀店」は、現在「大起水産回転寿司道頓堀店」になっています。ガックリ。
◆大阪松竹座
542-0071大阪市中央区道頓堀1-9-19/06-6214-2211
大阪松竹座は、大正12年(1923年)関西初の洋式劇場として誕生しました。大林組の木村得三郎によって設計された正面の大アーチが特徴的なネオ・ルネッサンス様式の建築は、大阪の顔として親しまれました。開館は同年5月17日で、柿葺落し記念公演は、ドイツ映画『ファラオの恋』、松竹蒲田作品『母』、そして松竹楽劇部による実演『アルルの女』でした。その後、松竹楽劇部(後のOSK)の本拠地となり、大正15年(1926年)4月には、以後恒例となるレビュー『春のおどり』の第一回公演が行われました。松竹楽劇部をメインに、海外の舞踊団、俳優による実演も行われ浪速の新しい文化の拠点となっていきました。以後戦前は洋画を中心に、戦中と戦後すぐには邦画封切館として興行、そして、昭和27年(1952年)7月からは洋画封切館として再発足、数々の名作を上映し、平成6年(1994)5月洋画封切館としての歴史の幕を閉じました。
大阪松竹座の新築開場記念式典が平成9(1997)年2月26日、盛大に開催されました。1階のデザインは、外壁のネオ・ルネッサンス様式のアーチを意識して、壁、床をサンドベージュ色のイタリー大理石で欧風に仕上げています。正面玄関を入ると、右側が総合案内カウンターになっています。正面の壁面にはビュッフェ作の『暫』の絵画が掛かり劇場の雰囲気を醸し出しております。2階のデザインは"少し"和風をテーマにしています。壁面は1階と同じ大理石を使っていますが、床面には和風をイメージした絨毯と、左右壁面に配された中島千波画伯の1月から12月の四季折々をテーマにした12枚の日本画が掛かっております。この階は劇場メインロビーとして使用されます。ソファーを配した正面奥にお土産、お弁当等を販売する売店。3階に上がり観音開きの二重のドアを開けて場内に入ると、柿色を基調とした緞帳がお客様を迎えます。この緞帳は、高倉家に伝わる調進控有職文様絵形の下絵集成の中から取材した『有職麗華』という題名です。また、緞帳を縁取るプロセニアムは公演内容に対応出来るよう、上部が可動します。これは日本初の装置で、例えば歌舞伎の場合7.3メートル、ミュージカル等の時は9.0メートルになります。553席の椅子と壁、床面は赤を基調として日常性から遊離した演劇空間を演出しています。本花道は勿論のこと仮花道の設置、オーケストラ使用時はピットも出来るよう設計されています。また、天井埋め込み式宙乗りレールが2基用意されています。緞帳が上がると無節の国産檜で張られた舞台が目に入ります。廻り舞台の中では、転換をスピーディーに行う大小7基の迫りが内蔵されています。また、スッポンは2分割されていて『伽羅先代萩』などの狂言によって活躍します。また、ロビーの壁面には小田次男作の『伊達娘恋緋鹿子(お七)』の絵画が掛かっております。
※曽我廼家芝居の発祥の地
新喜劇といえば大阪。二大勢力が「松竹新喜劇」と「吉本新喜劇」だ。藤山寛美の爆発的人気に、ほろりとさせる名作で人気を誇った松竹。お約束ギャグで抱腹絶倒の舞台を毎日届ける吉本。松竹新喜劇は、明治期に歌舞伎から転身し上方喜劇を創った曽我廼家五郎十郎一座の流れをくみ、1948年に誕生しました。作品を重視してタイトルや役名が語り継がれるのが特徴です。例えば「はなの六兵衛」は上方喜劇の祖、曽我廼家五郎、「人生双六」は戦前から活躍した曽我廼家十吾の作品だ。ともに寛美が戦後、繰り返し上演し当たり役に。今回上演する2作の作者、舘直志は二代目天外の筆名。二代目は約500作の脚本を残し、寛美とともに名作の再演を重ねつつ新作を世に送り、松竹新喜劇の隆盛を招いた。
吉本新喜劇は、ギャグを言う芸人が財産。タイトルや役名は重要でないと言い切る。確かにギャグは個人のもの。チラシを見るとタイトルより出演者の顔が目に入る。新作を次々に上演するのも特徴だ。その手法はテレビにもマッチした。吉本新喜劇の前身「吉本ヴァラエティ」が59年3月に幕を開けた。同時にテレビ中継を始め一気に注目が集まり、翌60年の正月公演は大入り満員。警察から注意を受けたほどという。62年に吉本新喜劇と改称。その翌年に本拠NGKがオープンし、日本全国から観客を集めている。双方の新喜劇について大阪府立上方演芸資料館(ワッハ上方)の古川綾子学芸員は「作品を代々受け継ぐ松竹に対し、吉本は時事ネタを取り入れた一回性の舞台」と表現。吉本新喜劇の創成期に吉本興業幹部はスタッフに「松竹を見ているか。相手がなかったら良い物は書けない」とハッパをかけた。一方「松竹新喜劇は今の空気を通わせるよう、もっと新作が必要」(牧原氏)と言う。2派は互いに意識をしながら、ナニワの地で共存している。
★大阪府立上方演芸資料館(ワッハ上方)
●2008年2月/年30億円削減・橋下知事の府営施設見直し
大阪府の橋下徹知事が打ち出した府営施設の見直し構想で、スポーツ施設など25施設を廃止した場合、1年間の運営収支だけで年間約30億円の財政削減効果があることが7日、分かった。橋下知事は就任前の今月4日の会見で、全83施設について「図書館以外は不要と思う」と発言。府はすでに、図書館や病院などを除く25施設を抽出しており、13日に立ち上げる改革プロジェクトチームで廃止・売却に向けた本格検討を始める見通しだ。25施設は、宿泊研修施設(4カ所)▽貸館施設(7カ所)▽スポーツ施設(4カ所)▽博物館(6カ所)▽その他(4カ所)。平成18年度予算ベースでみるとこのうち、マリンロッジ海風館(岬町)と体育会館(大阪市浪速区)、グランキューブ大阪(大阪市北区)を除く22施設は単年度の運営収支で赤字を計上。黒字施設分と相殺しても運営のランニングコストだけで府の一般会計から総額29億1000万円が支出された計算。他の年度でも30億円程度の支出が繰り返されていた。
赤字額が最も多かった施設は、「ワッハ上方(大阪市中央区)」で4億2900万円。このため府では、太田府政時代の「公の施設改革プログラム」で検討対象とした施設のうち、橋下知事の意向ではずした中央図書館(東大阪市)、中之島図書館(大阪市北区)や救命救急センター、公園などを除く25施設を検討施設とした。橋下知事は「ゼロベースでの検討」を指示しており、単年度運営黒字を計上した体育会館など3施設も見直し対象に含まれる。プロジェクトチームでは、廃止・売却を前提とした詳細な試算を行うが、実際には、建設コストの起債償還をどう扱うかなどの問題が残るほか、博物館などの特殊施設の場合、売却先の選定が困難といった課題も残る。また、これらの施設は、もともと公益性が高いと判断された事業が行われているだけに、存続の必要性を訴える声も強く、反発も予想される。橋下知事は6月をめどに一定の方向性を出したいという。
●2009年12月「ワッハ上方」を巡る状況
現地存続か移転縮小かをめぐり、結論を持ち越していた大阪府の演芸資料館「ワッハ上方」について、大阪・橋下府知事は条件付きで現地存続することを決めた。橋下知事は12月28日朝、ワッハ上方の移転先の候補だった「通天閣」の西上社長に移転を断念したことを伝えた。移転はコスト削減などを図りたい橋下知事の意向だったが、ワッハ上方を運営する「吉本興業」と放送局側が府からの運営費を事実上ゼロとする改善策を提出したため、橋下知事は現地存続へ方針転換した。ワッハ上方の入場者数は現在年間5万7000人だが、橋下知事は、吉本興業側が目標とする40万人を達成しなければ閉館にするとの条件をつけた。
●2013年4月18日「ワッハ上方」「NMB48劇場」が入るビル売却・吉本興業
吉本興業(大阪市中央区)は2013年4月18日、ワッハ上方(大阪府立上方演芸資料館)やアイドルグループ「NMB48」の専用劇場などが入る所有ビル「YES・NAMBA」(大阪市中央区)を売却したと発表した。同社は中長期経営戦略の一環としている。同社によると、今月15日に大阪の不動産関連会社と譲渡契約を結び、今月末に引き渡すという。売却価格は明らかにしていない。入居テナントはそのまま残る予定。同ビルは平成8年、ワッハ上方の入居を前提に建てられた。地上8階、地下1階。ワッハのほかジュンク堂書店千日前店や劇場「5upよしもと」などが入る。ワッハ上方は慢性的な入場者不足で、20年に橋下徹大阪府知事(当時)が存続見直しを決定。移転も検討されたが、今年度からは4、6、7階の3フロア分を7階に集約して存続する縮小案が決まっている。吉本興業は売却理由について「中長期経営戦略に従う事業集約の一環」としているが、同社をめぐっては22年に上場廃止した際の資金調達で財務状況が悪化するなどし、改善策が検討されていた。
◆旧・新歌舞伎座
542-0076 大阪市中央区難波4-3-25
千日前にあった歌舞伎座の後継劇場として1958年に誕生した。村野藤吾設計。収容人員1638人。歌舞伎座と銘打っているが当初から歌舞伎が上演されることは殆どなかったという。2009年に老朽化を理由に閉館。新歌舞伎座は上本町に建設された上本町YUFURAへと移転した。2012年に冠婚葬祭業大手のベルコが土地を取得。跡地に結婚式場やホテル、本社機能を備えた複合ビルの建設を検討している。
★開館40周年記念特別企画「~萬野コレクションの名品一挙公開~琳派と茶道具」展を開催
サントリー美術館(東京)では、2001年4月17日(火)から6月3日(日)まで「~萬野コレクションの名品一挙公開~琳派と茶道具」展を開催します。本展は、萬野美術館に所蔵される作品の中から琳派と茶道具の名品を選りすぐり、さらにコレクションの中でも特に注目される優品も併せ、計121点の作品を展示します。「鷹のように鋭い」コレクターと評された実業家、萬野裕昭氏。氏がその半生をかけて蒐集された美術品は2000点におよび、国宝、重要文化財などの国指定文化財を多数含む非常に質の高いコレクションとして知られています。かつては「謎のコレクション」とも評されましたが、昭和63年大阪の地に開館した萬野美術館において順次公開されるとともに、近年では写真家・篠山紀信氏とのコラボレーションによって一般の関心をも呼び起こしています。しかし、いまだ萬野美術館の外にはほとんどの作品が出ておらず、コレクションの本格的な紹介はなされていません。本展覧会は、広い分野にわたる萬野氏の収集品の中から、コレクションの重要な柱である琳派の作品と茶道具の名品を選りすぐり、萬野コレクションの粋を紹介しようとする初めての試みであり、関西の優れた一大コレクションの存在を関東の方々にもより広く知っていただこうとするものです。琳派では、萬野氏が琳派の世界に魅せられるきっかけとなった「蔦の細道図屏風」(重文)をはじめとして、宗達、光悦から鈴木其一までの絵画、工芸作品を、茶道美術では、「玳玻天目散花文茶碗」(国宝)などの名碗、掛物から和物の器まで、茶の湯を愛した萬野氏の自由な境地が窺える茶道具の数々を展示いたします。さらに、「西行物語絵巻」(重文)、円山応挙の代表作「牡丹に孔雀図」(重文)など、コレクションの中から特に重要な作品も併せて特別に出品されます。本展覧会を通して、21世紀に受け継がれるべき秀逸なコレクションの世界をご堪能いただければ幸いです。
【参考】大阪のサントリーミュージアム天保山/大阪市港区海岸通1丁目5番10号
サントリー創業90周年を記念し、佐治敬三氏が大阪に芸術や文化と親しめる空間、そして街中では中々見られない「きれいな夕日」を眺められる美術館の設計を安藤忠雄氏に依頼。中之島や市街地の建物のように、”水辺に背を向けて”建てられたものではなく、海を取り込み、美術館から海へ降りていく広場を配置、親水を意識したサントリーミュージアムが完成した。建物は直方体の美術館(ギャラリー)と逆円錐形に入るIMAXシアターやショップなどから構成される複合施設。ガラス面を多く採用し、空の青や海の濃紺を取り込み、時間帯によって様々な表情を見せてくれる。サントリーミュージアムは2010年12月26日をもって休館(事実上の閉館)し、大阪市へ建物を無償譲渡後、美術館として存続させる予定になっており、佐治敬三氏と安藤忠雄氏、大阪で生まれた二人の巨匠の夢の形が区切りを迎えた。大阪市は、旧サントリーミュージアム〔天保山〕について、平成25年1月31日にオリックス不動産株式会社と定期建物賃貸借契約を締結しました。オリックス不動産株式会社には、これまでの歴史を継承しながら、海遊館や天保山マーケットプレースなどの各施設との連携により当施設を運営し、天保山・築港地区の地域活性化に貢献していただきたいと思います。賃貸借契約の締結にともない、オリックス不動産株式会社との協議の結果、下記の名称でオープンすることが決まりました。新名称「大阪文化館・天保山(英語表記:Osaka Culturarium at Tempozan)」平成25年4月1日(月曜日)オープン。
※萬野美術/新潮社(1999/3/20)
戦後最大の美術品コレクター万野裕昭の眼が集めた世界有数の日本・東洋古美術コレクション―万野美術館所蔵の世に知られた名品に写真家・篠山紀信が挑む。展示ケースを離れ、万野美術館と側川山荘(万野裕昭が趣味で作り上げた山荘)で行われた美術品撮影の常識を覆す前代未聞の撮影は、名品の持つ本来の存在感を白日のもとに照らしだし、万野コレクションの新たな美的世界を浮かび上がらせた。
・・・せめて本だけでもと思い、注文しました。
◆萬野美術館
542-0086大阪市中央区西心斎橋2-2-3第三松豊ビル13・14F/06-6212-1517
明治39年(1906)大阪府泉北郡忠岡町に生まれた起業家・萬野裕昭氏は、海運・不動産・外食産業などを手広く手がけて財をなした。古美術を中心として蒐集しており、その分野は絵画、墨蹟から工芸品、染織、陶磁器、茶道具、刀剣、甲冑など多岐にわたる。コレクションの総数は約2000点で、その中には中国・南宋(12世紀)の天目茶碗など国宝3点のほか、国の重要文化財34点、重要美術品22点などがある。萬野美術館はこれらのすばらしい収蔵品を展示するため昭和63年(1988)に開館した。茶室裕裕庵も館内に造られている。国宝の一つに玳玻天目茶碗がある。天目は福建省の建窯で妬かれた黒釉碗であり、黒く発色した鉄釉の器物を天目と呼ぶ。天目の中で有名な物は、油滴・曜変・禾目とあるが、油滴の斑紋は釉中の酸化第二鉄が表面上に浮いて結晶した物である。曜変は黒い釉面に大小の結晶が浮かび、その周りに暈天状のぼかした虹彩を持つ物である。世に現存する物は五点のみと言われている。玳玻は天目釉の上にさらに失透性の藁灰釉を振りかけ、黒字に飴色の斑紋を持っている。この萬野美術館にあるものは、玳玻天目散花文茶碗と呼ばれている。当美術館はビルの中に茶室も造り上げており、まさにビル街の”壺中の天”である。出光美術館の大阪分館は2003年に、続いて萬野美術館は2004年に閉館。萬野美術館の国宝「玳玻盞散花文天目茶碗」は、現在は京都の相国寺承天閣美術館に保存されている。この大名物はかって松江藩主で江戸時代の代表的な茶人の松平不昧が所持したことでも有名な唐物茶碗であった。
※松豊土地建物株式会社の沿革より
1986年(昭和61年)大阪市中央区西心斎橋、御堂筋沿いに「第三松豊ビル」が完成する。地上14階、地下2階、延床面積7,104坪のビル13階、14階は萬野美術館とし、他はテナントに賃貸する。
2005年(平成17年)「第三松豊ビル」並びに、その他遊休資産等を売却し、本社を大阪市福島区福島ラグザ大阪に移転する。
★「心斎橋モノリス」
542-0086大阪市中央区西心斎橋2-2-3ORE心斎橋ビル13・14F/06-6212-2112
ここは、元は国宝や重要文化財を所蔵していた萬野美術館でしたが、2004年に閉館したあと、フレンチレストランとしてオープンし、結婚式や披露宴の会場として人気のあるお店です。
・・・1階からの直通エレベーターで、高い13階まで上がります。ちょっとお値段も高級で、敷居も高いです。
ミュージアム巡りをしている大きな理由が、この「栄枯盛衰」にあります。今行かなければと、駆り立てられている今日この頃なのです。