茨木市おそるべ市(10) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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◆妙徳寺(たちばな保育園

567-0819茨木市片桐町14-26072-627-7301


みょ1


妙徳寺に「中川家」の墓10数基と供養塔1基がある。吹田市の中川家(現・千葉博彦氏)がまもられている。墓地は平成4年に千葉氏が寺内の3ヶ所にまとめられ改修された。1ヶ所は日蓮上人像の横にあり、供養塔は他の供養塔よりも一段大きいものである。中川家は清秀が賤ヶ岳で討ち死にしてから播磨三木、豊後竹田へと移封され豊後岡藩として明治維新まで続く。妙徳寺内にある「中川家」の墓と供養塔は中川一族の一部が茨木周辺にのこっていたものだろう。千葉氏は昔から墓と供養塔をまもられてきた。妙徳寺の開基は文禄2年(1593年・秀吉の朝鮮出兵の最中)に日応上人が京都本満寺の末寺とした開基した。妙徳寺の寺名は中川清秀の娘の戒名(妙徳尼)からきている。妙徳寺には茨木城廃城の時に移されたと言われる蹲と山門(脇門)がある。蹲は梅鉢の形にくりぬかれており、これは片桐公の紋形とのことである。山門は武士が馬に乗って通れるように高く作られていた。移築された山門は1841年(文政12年)に大修理が行われ、その後、度重なる台風により崩壊状態になりジェーン台風(昭和25年・1950年)破壊されました。1992年(平成4年)に全面大改修が行われたものの、1995年(平成7年)の阪神淡路大震災で崩壊し、1998年(平成10年)に新築されました。昭和27妙徳寺境内にたちばな保育園創立されました。


みょ2


旧茨木川の佐介樋跡、その東側茨木市上泉町辺りに佐助屋敷跡のがあります。

古田織部「古田重然」

「秀吉が関白になると、重然は年来の功績を賞され従五位下織部正(織部助)に任ぜられ、山城国西岡に所領3万5,000石を与えられた」とあるように、古田織部は山城国に西の岡に古田織部城、古田織部屋敷を築城したと言われます。この西の岡というのは、現在の京都の長岡京駅の辺り。古田織部城は跡形もない。古田織部屋敷は大阪の茨木市です。旧茨木川の佐介樋跡東側、茨木市上泉町辺りに佐助屋敷跡といのがありますが、これが古田織部屋敷跡です。古田織部が佐助景安と称していたから、佐助屋敷といいます。

旧茨木川の佐介樋跡東側、茨木市上泉町辺りに佐助屋敷があったといいます。小字「本丸」北西の小字「佐助屋敷」は、古田織部正重然の屋敷跡と云われています。古田織部が佐助景安と称していたからで、古田織部は中川清秀の妹・せんと結婚しています。荒木村重の乱で、織田信長は茨木城を攻めるために茨木の郡山に陣を置き、村重の姻戚で、重きをなしていた中川清秀を、信長方に寝返らせたのが古田織部でした。織部は天正6年以来、清秀と行動を共にし、清秀没後はその嫡子秀政の後見人となっています。

●茨木小学校正門の土塀にある校名は古田織部が好んだ織部焼で作られています。

「茨木街道支線」起点道標茨木市本町

茨木街道と高槻街道が並行しながら茨木市本町で東へ右折する。その字路を起点として北へ向かう。途中、三咲町で道祖本街道と交差、十日市で西国街道と交差、安威で妙見街道に合流して終点となる北東角に半分壁に塗りこめられた道標があります。

南面 右 京 八幡 三島江 唐崎 富田 高槻

西面 左 妙見山 亀山中山勝尾寺


みょ3


◆「田中のまるまた門ノ前橋梁茨木市田中

1876年(明治9年)東海道線開通時に完成したもので「田中の丸また」と呼ばれ、基礎の石垣は明治初年に取り壊された高槻城の石垣が使われているそうです。基礎(側壁)やパラペットはオランダ積み斜めに切った”迫受石”があります。茨木城は江戸時代に一国一城によりなくなってしまったので、トンネルの土台になる部分には、高槻城の石垣が使われているそうです。北詰めには地元では有名なお豆腐屋さんがあります。



ねじりまんぽ(煉瓦斜架拱)

明治時代、田んぼや水路・通路があったところに鉄道を横断させたので、水路や通路が分断されました。そこで、マンポ(正確には鉄道の橋)を造ってこれまで通りに通れるようにしたというわけです。鉄道と道路が直角に交差するところでは普通に水平に積んでアーチを造っていくのですが、線路と道路(マンポ)がある角度以上に斜めに交差する場合、このねじりまんぽが施行されました。レンガと線路とが直角に交差するように、レンガを積んでいます。結果的に道路側から見るとアーチ部分の煉瓦が捻ったように見えるのです。ねじりまんぽの数は正確には把握されていませんが、元々施工例が少ない上、老朽化や廃線で撤去され、現在は、全国に30箇所程度しか無いと言われています。その内、約2/3が近畿地方にあります。特に旧東海道本線は、ねじりまんぼの宝庫と言われています。現存するねじりまんぽの箇所数について(平成26年2月末現在)文献「鉄道と煉瓦」ではねじりまんぽとして30地区32箇所が記載されています。また、その内6箇所が撤去されたと書かれています。その後の調査では、安井橋梁(JR東海道線)/神戸市/「さくら夙川駅」の工事のため平成18年に撤去又は埋殺しされたもよう。穿屋川橋梁(JR東海道線)/岐阜県不破郡関ヶ原町野上/文献「鉄道と煉瓦」に記載無し、32-6-1+1=26と言うことで、26箇所を現存する箇所数としています。レンガは今のものとは寸法が違います。現場によっても様々な形状のものが作られていたようです。ちなみに、JR京都線に使われた煉瓦は、京都の桂で作られたそうです。



みょ4

・・・「田中のまるまた」以外も見て歩きましたが、


みょ5


・・・どれもこれもレトロで個性的で、トンネルのミュージアムと呼んでもよさそうです。