茨木市おそるべ市(9) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・茨木市に3度目の訪問です。まだまだ気になることがありまして、


きに1  


故郷大阪へ愛込め現代版画・木村光佑さん個展


コラージュを活用した独自な作風で現代版画の新境地を切り開いているアーティスト、木村光佑さんの個展が大阪市北区の茶屋町画廊で開かれている。テーマは「大阪の詩(うた)-そして関西-」。故郷・大阪への愛情に満ちた作品が来場者を魅了している。2013年8月6日まで。木村さんは京都市立美術大(現京都市立芸術大)で日本画を学び、広告代理店(グラフィックデザイン制作)を経て、独立した。「広告代理店に勤務していたころ、過労とストレスが原因で入院。退屈しのぎに雑誌や新聞から写真や絵を切り取り、寄せ集めて一つの作品に仕上げることで、それまでとは異なる世界が表現できる、という奥深さを知り、創作活動を始めるようになった」と話す。コラージュに独自の思いや愛情を注ぎ込み、斬新な作品を次々と発表。1970年の英国国際版画ビエンナーレ展で受賞したのを皮切りに、73年には世界版画コンクールで国際大賞に輝くなど、その後も国際的なコンクールで相次いで受賞。大阪市制100周年記念ポスター(88年)、阪急茨木市駅モニュメント「虹の塔」(92年)、JR新大阪駅新幹線コンコース壁画「大阪の詩」など、市民生活に溶け込んだ作品も意欲的に制作する。98年から6年間、京都工芸繊維大学の学長を務め、「科学と芸術の融合」をテーマに大学改革に力を尽くしたことでも知られる。昨年秋の叙勲で瑞宝中綬章を受章。今回の個展は受章記念を兼ねており、大阪にちなんだ詩情豊かな作品を展示する。「大阪市庁舎」「日本銀行大阪支店」「文楽」などの作品が、木村さんならではの世界で表現されており、来場者は木村さんの“魂”を感じ取るようにじっくりと鑑賞していた。




◆茨木市立天王中学校


567-0868茨木市沢良宜西3丁目8-5072-632-5781


昭和61年6月1日に、創立10周年記念として設置された木村光佑さんの「飛翔」という作品です。中学生たちは誇りに思ってるかな?




・・・まだまだ木村光佑さんの作品が、茨木市のあちこちにあります。


きに2  


◆茨木高校(東門)


567-8523茨木市新庄町12番1号072-622-3423




●兵枡/出陣するときに、兵をここに集めて、点呼する場所だったのだそうです。「武者だまり」「馬だまり」と言われ、南からせめてくる敵をここで迎え討ち、茨木城を守っていたと考えられているそうです

茨木童子貌見橋昔、水尾村の農家にすでに歯が生え揃い、すぐにヨチヨチ歩きをした男の子が生まれました。この時母はショック死し、思い余った父は、この子を茨木村の九頭神(クズノカミ)の森近くの床屋の前に捨ててしまいました。その後、床屋の親方に育てられ店の手伝いをしていましたが、ある日客の顔をカミソリで切り、その血なめたところ病みつきとなり、それ以後わざと客に傷をつけてはなめていたので客が来なくなり、店はつぶれてしまいました。ある夜、顔を洗うため近くの小川に行き、土橋の上から水鏡に映った自分の顔をみて鬼の相をしていたので驚き丹波の山奥に入ってしまいました。その橋は以来「茨木童子貌見橋」と名づけられました。



きに3  


案内板とは別の場所にある庄町6番地にある碑。昭和50年3月建之茨木市長北川安一書




開校100年を期に新たな校舎が出江寛の設計で建てられ、旧校舎は取り壊されました。体育館は屋根に採光のための突起がいくつも出ている特異な形をしていますが、これは茨木童子にちなみ「鬼」をモチーフに設計されたからだそうです。



きに5


前塚古墳出土石棺(レプリカ)茨木高校体育館内


形が長持に似ていることから、長持方石棺と呼ばれ、長さ約2.3m、幅0.7m、高さ0.9m、合計6枚の板状の竜山石(兵庫県加古川市流域に産する凝灰岩)が組合わされている。大正5年(1916)、地元の所有者から茨木高校に寄贈され、永らく旧校舎の中庭に設置されていた。昭和49年(1974)には大阪府重要文化財に指定されている。平成6年(1994)、大阪府立近つ飛鳥博物館の開館に寄贈し、高校にレプリカが設置されることなった。・・・また「近つ飛鳥博物館」に行く機会があったら探してみます。学校に眠る遺跡(茨木高等学校、新庄遺跡)茨木高等学校は、明治28(1895)年に大阪府第四尋常中学校として開校しました。当初は、茨木市総持寺の庫裡を仮校舎として使用していましたが、明治30(1897)年、校舎完成と同時に、茨木市新庄町の現在地に移転しました。以来、明治34(1901)年、大阪府立茨木中学校と改称する等して、120年近く経っていますが、その地下に遺跡が眠っていることは全く知られていませんでした。平成4(1992)年、茨木高等学校の全面的な改築工事に先立って埋蔵文化財の有無を調べる試掘調査が実施されました。すると、地表下2メートルから3メートルの深い層位から古墳時代から中世の遺物が出土し、遺跡の存在が明らかになりました。新しく発見された遺跡は「新庄遺跡」と命名され、発掘調査が平成4(1992)年から平成7(1995)年まで実施されました。



近代水泳発祥の地(正門)


発掘調査は、プールや体育館・校舎などの改築工事で、地下の遺跡が壊れる部分に限って実施しました。主として、学校の敷地の南半部分です。地表下1メートルまでは、高等学校建築時の盛土ですので、大型重機で掘削しました。すると、プールが2箇所発見されました。当初は何の跡か分らなかったのですが、校長先生や卒業生の指摘によって、それが大正時代に水泳池・水泳場と呼ばれていたプールの跡であることが分りました。水泳池・水泳場については、旧制茨木中学の教諭であった杉本伝著『泳ぎと歩き』や『茨木高校百年史』に詳細な記述があり、その歴史を辿ることができます。まず水泳池ですが、明治43(1910)年に南庭拡張工事が行われました。その土採り跡に水が溜まっていました。それに着目したのが初代加藤校長です。当時、大阪府知事から「大阪府立中学校の生徒には、夏季水泳の訓練を必修の課目として実施すべし」という訓令が下り、「どうしても泳ぎを生徒達に修錬させねばならぬ」しかし茨木は海より遠く、合宿となると保護者に経費の負担を掛けることになる。そこで、加藤校長は土取り跡を生徒の作業で浚え、木の丸太を打ち、板を張って、泥土の崩れを防ぎ、底に茨木川の砂利を敷き詰め、茨木川からの水を引き入れて、また水路に返すという方法で、長さ30メートル幅20メートルの水泳池を造り上げました。作業は、大正2年(1913)5月から6月の1ヵ月余りで完了し、この水泳池で都合3年間水泳授業が行われました。このプールは、日本で最初に造られた学校プールでした。ところがこのプールは水深が1.4メートルと浅く、大勢で泳ぐとすぐに濁ってしまうので、大正3(1914)年、さらに深く掘り下げられました。しかし衛生上もよくなかったため、大正4(1915)年に水泳池の北方120メートルの所に、新プールを建設することになりました。その工事も、前回同様、川端康成や大宅壮一を含む当時の生徒達の体操の時間や放課後の勤労作業によって行われました。6ヵ月かけて出来上がったプールは、水泳池同様、茨木川の水を引き入れるプールだったのですが、長さ42メートル、幅27メートルの長方形で、深さは、1.2、1.5、1.8メートルの3段になっていました。深さ1.2メートルの所、つまり足の立つ部分はコンクリートで固め、1.5・1.8メートルの所は、砂利敷きでした。本格的な水泳場の誕生です。しかし、この水泳場は長さが8メートル足りなかったため、大正8(1919)年さらに拡張工事が行われ、ようやく長さ50メートルの競泳の記録が計測できる正規のプールが完成しました。このプールが、後にオリンピック選手を育てた、「水泳王国茨木中学」の有名なプールでした。この水泳池・水泳場の跡が発掘調査で発見できた訳です。今回、見つかった水泳池はその南端は調査区外でしたが、南北方向に長さ30メートル、東西方向に幅は北側で22メートル、南側で19メートルでした。水泳池の底は東側が一段深くなっており、底には砂利が一面に敷き詰められていました。水泳池の北側には、打込まれた松丸太や杉の横矢板がよく残っていました。水泳池の北西側には、木枠・桶組みの深い井戸があり、7本の土管が連結して、井戸から水泳池に水が自然勾配で入るように処置されていました。渇水期に利用されることもあったのでしょう。水泳場は、調査区の関係で、北端と南東部分が検出されました。規模は、南北で約30メートル、東西で50メートル以上ありました。東端は、後世の攪乱で削られていました。水泳場の北端では、松丸太・杉横矢板・梯子状に組まれた控えの横木とプール内に幅35センチメートルの煉瓦敷きの列や水の取入れ口などが見つかりました。南東部分では、集水枡と土管による排水路および杭を打ち、板を固定した排水溝などが見つかりました。なお、水泳場の底は、すべて簡易なコンクリート敷きでした。水泳場は昭和44(1969)年に新プールができるまで、高さ10メートルの飛込み台や水球施設・プール濾過装置を作るなどの改修工事が幾度も重ねられ、都合50年以上使われ続けました。その栄光の歴史を記念して「近代水泳発祥之地」の石碑が昭和60(1985)年、校内に建てられ、顕彰されています。




・・・さらに詳しいことは「大阪府HP」をご覧ください。http://www.pref.osaka.lg.jp/bunkazaihogo/maibun/sinjou.html



きに4  


◆銅鐸鋳型出土地/茨木市東奈良2丁目15


昭和48年(1973年)から昭和49年にかけての調査で、東奈良遺跡の南東端と考えられるこの地から加工した石(凝灰質砂岩製)、が発見されました。この石には線で刻まれた文様が彫られており、銅鐸の鋳型であることがわかりました。




◆東奈良あやめ南児童遊園/茨木市東奈良3丁目8


北児童遊園とあわせて、案内標石には銅鐸が刻まれています。


◆東奈良あやめ北児童遊園/茨木市東奈良3丁目4


平成11年4月28日には、今から2200年前(弥生時代中期)に掘られた溝の底から小さな銅鐸が舌(ぜつ)とともに発見されました。この小銅鐸は鳴らして使っていたらしく、銅鐸内部に磨り減った跡がありました。このことから、鐘を鳴らして使用していたとされています。その大きさは、高さが14.4cm、幅9.5cm、重さが750gという小さなものですが、銅鐸の身の部分に文様が施してあり、小銅鐸としては珍しいものです。案内タイルが埋め込まれています。さらに、六角テーブルのベンチ部分には、なんと銅鐸型の脚がついていました。




・・・まだまだ茨木市はスゴイぞ。