・・・入館した時から気になっていた壁面レリーフ、なんと木村光祐さんの作品ではありませんか。
★木村光佑
「私にとって<つくる>ということは、自然の流れに沿いつつ、その時々の自分という〈断面〉を表現することに他なりません。(中略) 確かに感覚的な意味では現在でもコラージュが私の作品の根底にはあります。コラージュとは、ある文脈で与えられている意味を剥ぎ取って、全く別の意味を与えるということです。だから、いってみれば私の版画と彫刻の作品がお互いに交差しあっているのも、一種のコラージュみたいなものです。さらにつきつめれば、人生もコラージュではないでしょうか。出会いをそのように捉えれば、コラージュは物事すべての基本であると思います。」
日本経済の高度成長と同時に美術の大衆化が顕著となる中、木村光佑は30歳を超えた1968年に作家としてデビューを果たした。シルクスクリーンや写真製版をはじめ多様な製版・印刷の最新技術を駆使し、現在社会の虚像と実像入り交じる様々なイメージを重ね合わせることで、情報過剰な同時代人の視覚的経験を作品化し、デビューと同時に「時代の申し子」として立て続けに国際コンクールでの受賞を重ねていく。一方で、自由な版表現への挑戦は、当時の日本版画界においては異色であり、版画の範疇や概念に対する議論を巻き起こした。1955年京都市立美術大学(現:京都市立芸術大学)にて日本画科へ入学、卒業後は広告代理店にてグラフィックデザイン制作に携わった後、デザイン会社を設立しデザイナーとして活躍しながら作家に転向する。この異色の経歴が規定概念に捕われない木村の自由な版表現の根源である。日本画におけるモノの捉え方、彩色法、様式美はイメージを重ね合わせる独特の作品作りにつながっており、画面の秩序化への関心やレイアウト的な構図への志向性は広告を通じて培われたものである。印刷に長く携わってきたため、版画をジャンルとしてではなく一つのメディアであると突き放し、また日本的な版画観に捕われない思考によってアクリルやステンレス・ガラス・琺瑯などの異素材や立体物へも果敢に挑戦し続けてきた。1987年、ノーベル化学賞を受賞した福井謙一からの要請にて京都工芸繊維大学工芸学部教授就任し、大学教授として若い才能を育てる傍ら、「科学と芸術」の融合について探求しつづけ、1998年には第9代学長に就任した。科学に芸術の持つ感性や感覚を取り入れる事によって、未来の科学者たちに多角的な視点を問いつづけた。木村は作品においても日常的な現実を反映させ続け、作家でありながら常に社会と関わり続けることにより、1999年には紫綬褒章を受章する等の社会的な貢献もした。
・・・茨木市美沢町にお住まいなんですね。
・・・1階の展示もなかなか充実しています。そして、2階へ。
◆文化財資料館2階展示室「戦国時代のいばらき」
茨木遺跡の出土品と茨木にゆかりのある品々を常設展示しています。
茨木城にまつわる、豊臣秀吉や中川清秀、片桐且元など戦国時代の武将も登場します。平成18年度に行われた茨木遺跡発掘調査で、茨木城の堀とみられる場所から、約400年前の木造建築物などが発見されました。建具などの出土品、発見された時の状態を再現した筬欄間(おさらんま)や床板材、明かり障子、遣り戸(やりど)などを展示しています。
・・・今回の予定には入れてないのですが、「茨木城址」にも行きたくなってきました。
◆東奈良史跡公園
資料館裏の史跡公園には家型・舟・馬などの埴輪、横穴式石室古墳、道標などを配置してあり、また約200年前に築造された高島家の古い米蔵を移築し、その中に農機具を収蔵しています。銅鐸の鋳型記念碑もあります。文化財資料館にはモデルとなった第1号流水文銅鐸鋳型が展示してあります。49年10月に地表下約1.6m、厚さ約50cmの遺物包含層から発見。鋳型の高さ43cm、幅29cm、厚さ12.5mm、重さ28kgで、 内側の高さが34.5mmで渦と流水文が彫りこまれています。
・・・さて、次の目的地「川端康成文学館」です。
★川端康成
1899年(明治32年)6月14日、大阪市北区此花町(現在の天神橋付近)に生れた。父は栄吉(済生学舎卒の医師、明治2年(1869年)1月13日生)、母はゲン(元治元年(1864年)7月27日生)。姉芳子(1895年(明治28年)8月17日生)。幼くして近親者を亡くす。1901年(明治34年)に父が死去し、母の実家がある大阪府西成郡豊里村(現在の大阪市東淀川区)に移ったが、翌年に母も死亡し、祖父の三八郎(天保12年(1841年)4月10日生)、祖母のカネ(天保10年(1839年)10月10日生)と一緒に三島郡豊川村(現在の茨木市)に移った。1906年(明治39年)、豊川尋常高等小学校(現在の茨木市立豊川小学校)に入学。笹川良一とは小学の同級生で、祖父同士が囲碁仲間であった。しかし、9月に祖母が死に、1909年(明治43年)には別居していた姉も死亡した。1912年(明治45年)大阪府立茨木中学校(現在の大阪府立茨木高等学校)に首席で入学。2年後に祖父が死去したため、豊里村の黒田家が引き取ったが、中学校の寄宿舎に入り、そこで生活を始めた。下級生には大宅壮一が在学していた。近所の本屋『虎谷』へは、少ないお金をはたいて本を買いに行っていた。