茨木市おそるべ市(3) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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川端康成文学館

567-0881茨木市上中条二丁目11-25072-625-5978



ばた1


昭和43年(1968年)日本で初めてノーベル文学賞を受賞した川端康成氏の“ゆかりのふるさと”である茨木市は、氏の業績を讃え、それを誇りとして、氏に『茨木市名誉市民』の称号を贈るとともに、多くの市民に川端文学に親しんでもらう拠点として、昭和60年(1985年)5月、川端康成文学館を開館しました。館では、氏の著書、遺品、書簡、原稿や墨書のほか、模型・写真・初版本・ビデオなどゆかりの品約400点を展示しています。川端康成は、『伊豆の踊子』『雪国』などで親しまれる著名な作家で、幼児期から旧制中学校卒業期まで茨木で暮らし、この時期に文学への志を深めました。併設のギャラリーでは、川端康成の誕生日、明治32年(1899年)6月14日を記念し、毎年6月に川端康成や川端文学のゆかりによる企画展を開催しています。さらに随時、川端に因む企画展を開催するほか、近隣の美術家による展覧会を開催しています。そのほか、市民が文学に親しむ機会として、川端文学や近現代文学に関する講座を実施しています(有料)


ばた2


・・・「川端康成」さんだけではありません。次は、中央図書館へ。


ばた4


・・・ここにも「木村光佑」さんの作品が、さらに、



◆【茨木市中央図書館】◆


567-0028茨木市畑田町1-51072-627-4129


中央図書館の設立(1992年3月)を記念してMpls.の彫刻家による彫刻が点設置されました。その一つが、正面玄関に設置されているMs. Harriet Bart の彫刻Helicon Volume」です。



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Mpls.市と茨木市の姉妹都市提携調印は、1980年10月22日Mpls.市において重冨市長と当時のMpls市長Donald Flaser氏によって調印された。Mpls.は米国中西部ミネソタ州にあり、人口約37万人でミネソタ州の州都である。



富士正晴記念館(中央図書館併設)


安威に住んでいた詩人・小説家の富士正晴氏が、生前に収集されていた文学資料や、自作の絵画など約8万点を収蔵、展示しています。また、実際に使われていた書斎が復元され、ありし日をしのばせています。



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富士正晴(1913-1987)本名冨士正明は茨木市内の竹林に住して、竹林の隠者と称された小説家、詩人、画家で、同人誌『VIKING』を創刊して、多くの後輩作家を育てた。没後、昭和63年(1988年)冨士家より茨木市に寄贈された資料を展示する目的で、茨木市立中央図書館に併設して開館した一般的には知る人少ないが、その生涯に遺した著作と書画、波瀾万丈の生涯(師事した竹内勝太郎への想い、後輩作家の育成、型破りの愉快な変人奇人振り)を考えると、司馬遼太郎に匹敵する遺産を後世に残した。


富士正晴は茨木市安威の古い家屋に酒杯片手に泰然と構えて、言いたい放題の憎まれ口を叩き、『竹林の隠者』とか『藪のなかの酒仙』だとか天然記念物扱いされていた。しかし、その書くものは酔っ払いのクダとは言えず良書を快速度で出した。まれにみる近代的知性の持ち主であった。富士の大きな字で書かれた葉書は、ペンでも毛筆でも多くの人に評判が良く、見た瞬間、元気が出たようである。


富士正晴は三高に入学後、竹内勝太郎との出会いもあり同人誌『三人』を刊行するほど文芸に熱中し、理系から文系への再入学、2度の落第などから三高を中退した。中国での悲惨な戦争体験から、復員後は新聞社でアルバイトをして同人誌『VIKING』を主宰、京大学者達や作家達と交遊しながら作家活動を続けた。10歳後輩の司馬遼太郎も、中国での戦争体験から、復員後新聞社で勤務し、京大学者達や作家達と交遊しながら作家活動を続けた。このように富士と司馬には共通部分が多く、文芸春秋”日本人を考える”で対談、深夜でも電話で語る間柄であった。違った点は、司馬が中退などせず、処女作『梟の城』で直木賞を受賞し順調な作家人生であったのに対し、富士は3度の芥川賞候補、1度の直木賞候補になりながら、それらの賞に恵まれなかったことである。これには、富士の竹内勝太郎に関する新聞のインタービューが参考になる「勝太郎との出会いは、転機という生易しいものでなく、その一生が勝太郎との出会いによって決定され、一生が転機の連続みたいなものだった」。日本人は社会に依存し、慣用句でいうところの何らかの”電車”(大学や大企業など)に乗りたがる。西洋人は個人が独立して社会への依存をいやしみ、電車に乗りたがらない。芥川・直木賞は、小説家にとって”電車”であることは周知である。司馬は、「富士は三高を中退してからは世の中から下車した真如の人」と称し、一休、良寛と比した。そして、“その精神は世にまれな器量人”と題して、富士に対する敬愛の念あふれる追悼文を贈った。