古市街道3 | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・同郡大字川邊に於いて大和川を横断し恵我村に入り左岸堤腹に沿い行進すること千餘間明治36年大阪府誌



うぶ1

深居神社580-0002松原市小川5-26-4

東除川の右岸に位置する小川の中でも、藤井寺市津堂との市境あたりは、まだまだ水田風景が見られます。それも、古代の方形の土地割である条里制の跡が整然と残っています。小川2丁目の古池・西池・東池の総称である整形な三ツ池を見れば、そのことがわかるでしょう。三ツ池は、条里制の農地をのち3つの区画を持つため池としたものです。三ツ池に西接する小川1丁目や北側の4・5丁目の地は、小川遺跡とよばれ、古墳時代から中世に至る集落遺跡です。また、三ツ池の東側の小川2・3丁目や藤井寺高校のあたりも津堂遺跡とよばれ、弥生時代から中世に続く遺構や遺物が見つかっています。同時に、小川6丁目の松原ジャンクション南東の屋後遺跡から、5世紀後半の円筒埴輪が検出されており、近くの小川5丁目の深居神社本殿が建つマウントも古墳の墳丘を想定させるとともに、境内からも須恵器が見つかっています。こうしたことから、古墳時代における小川の有力者のお墓(古墳)は、集落の北西にのち建てられた深居神社付近にあった可能性があります。この深居神社は、奈良時代の養老元年(717)の創建と伝え、品陀別命(応神天皇)を祀っています。棟札から、一間社流造りのこけら葺の本殿は、江戸前期の万治3年(1660)に建てられました。また、寛政5年(1793)をはじめとする多くの絵馬が拝殿天井に掲げられています。もともと、同社は小川だけではなく、津堂や市域の若林・大堀・川辺(大阪市平野区)の総産土神でした。それが、元弘建武期(133135)以降、現在のように小川一村の氏神となったのです。ですから、深居神社から分かれた若林神社・大堀八幡宮・津堂八幡宮・川辺八幡宮の祭神も品陀別命なのです。ところで、小川の名は、人々が東除川の水利をコントロールして農耕に生かしていったことからつけられたのでしょう。小川と一津屋とを結ぶ東除川に架かる一津屋橋のすぐ上流に「小川の戸関」とよぶ堰が設けられていました。ここで東除川の水量が調節されて三ツ池に貯えられ、小川をはじめ、下流の若林・大堀の水田に水をうるおすことができたのでした。今も、橋上からこの堰の跡を見ることができます。小川に、古代から中世を通じて恵我地方の総産土神の深居神社が鎮座したのも、同地が東除川の水上として重要視されていたからと思われます。社名が「深居」と称されるのも、「居」は「井」の転化であり、農耕に欠かせない井戸ー水の神として崇められたからでしょう古代、井戸は信仰の対象となりました。小川4丁目の不退寺の南から平安時代の井戸跡がたくさん見つかっています。また、深居神社参道東側に自然石が祀られています。そこは、屋後池があった所で、池は昭和43年に埋められましたが、池畔に建つ井戸神との関わりから、この立石も水神として信仰されていたかもしれません。


うぶ2


◆問屋地蔵尊/藤井寺市津堂2丁目-1

ここに河内木綿の問屋さん(紺屋家)が在ったそうです。一人娘を亡くされた事で、ここに地蔵さんを建立されその後、文久三年九月から講が出来て今までずっと続いているそうです。



剣先船

宝永元年(1704)、新しい大和川が今の流路に付替えられました。改流に伴い、剣先船とよばれる荷物を運ぶ舟も運行されるようになりました。すでに柏原から大坂市中に北流していた旧大和川には柏原船や国分船が就航していましたが、新流路の柏原~堺間にも河川輸送が導入されたのです。河内から大坂へ年貢米や商品作物を運ぶのが目的でした。反対に、大坂からは油粕や干鰯などの肥料が積みこまれました。翌宝永2年、14軒もの剣先船問屋が運行許可を求め、新たに舟会所もつくられました。下って、嘉永4年(1851)の「大和川中問屋軒数願付」に も14軒の問屋が記されています。そこには、現在の柏原・藤井寺・羽曳野・大阪・堺・富田林市域の村々の人とともに、松原市域の若林村の庄輔、大堀村の五 郎兵衛、天岸の七郎兵衛の名が見られます。天岸とは、天美地域の氏神である阿麻美許曽神社の北岸、今の下高野橋あたりをさすのでしょう。剣先船の大きさは、長さ約17メートル、幅約1.9メートルで積荷の重さは約2400キログラムほどであったといわれています。しかし、新大和川は水深が浅かったことから、通航には苦労することもありました。とくに、大堀・若林より上流にあたる大和川・石川合流点の築留 (柏原市)までの約5.2キロでは、川水が少なくなれば、船底が川床につかえて動けなくなりました。このため、水夫が川床を掘って船を動かしたのです。それでも河川による物資輸送の便利さから、松原地域の村々の年貢米も剣先船を利用して大坂に運ばれたようです。明和9年(1772)3月の更池村(現南新町)の「明細帳」には、天岸にあった舟付場から剣先船で大坂の京町堀川に入って川口難波橋(大阪市西区)まで下り、そこから積替問屋が上荷船や茶船に替 えて、蔵屋敷の門前まで運んだとあります。18世紀中頃の三宅・別所・城連寺村の「明細帳」にも、大和川から年貢米を舟で大坂へ納めたことが記されています。ところで、狭山池から流れてきた東除川が新大和川付替え時に掘られた落堀川に合流する大堀4丁目に、大堀八幡神社が祀られています。鳥居入口に改 流前の寛文9年(1669)と刻まれた手洗鉢が置かれていますが、改流後7年たった宝永7年(1710)11月にも、大堀氏が石灯籠を本殿前に奉納してい ます。村中安全のほか、剣先船の運行安全も祈念したのでしょうか。神社の対岸には、舟付場である川辺村(大阪市平野区)の川辺八幡神社の森も望まれます。両社は村の鎮守であるとともに、荷継をする人々のやすらぎの森にもなったでしょう。


うぶ3


◆津堂八幡神社/583-0037藤井寺市津堂44

津堂城山古墳の後円部にあります。松原市小川町に鎮座する『深居神社から分祀されて、品陀別命が祀られております。』と説明されています。1912年、神社合祀で廃社となった津堂八幡神社の記念碑をつくろうと、津堂城山の山頂部から石材を掘り出したところ、その下から立派な石棺が現れた。この石材は、竪穴式石槨の天井石だった。それを機に調査され、竪穴式石槨から長持形石棺をはじめ、鏡9面と硬玉製の勾玉と棗玉、碧玉製管玉、車輪石・剣形および刀子形の石製品、刀剣、鉄鏃や大量の朱など、多くの副葬品が出土した。(石材は予定通り、八幡神社の記念碑になった)その後、後円部頂だけが、宮内庁によって陵墓参考地に治定され石棺は埋め戻し、出土物は全て国が管理することになりました。1980年の調査で、内堤と外濠を検出し、内堤にも葺石があるとわかった。衝立形埴輪が出土。1983年の調査で、内濠、造出が確認され、円筒埴輪やキヌガサ形、盾形、衝立形、家形の埴輪が出土。内濠の中に島状遺構などを確認し、衣蓋形、水鳥形などの多数の埴輪が出土2009年の調査で、葺石の様子やテラスの様子が明らかになってきました

藤井寺市小山の小山善光寺の由緒書き等では、小山善光寺がこの古墳の側にあったとしていました。


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津堂城山古墳583-0033 藤井寺市小山6-5-6ガイダンス棟まほらしろやま

津堂城山古墳は、4世紀末に古市古墳群の中で最初につくられた墳丘長208メートルをはかる大型の前方後円墳です。室町時代中期以降に河内守護の畠山氏の執事、安見一族の小山城として、天正年間(1573~92)まで利用されていたため、墳丘の一部が大きく削られていて、盛土で古墳時代の遺構が埋め立てられていることが確認されています。「まほらしろやま」では、出土した埴輪や土器を展示し、イラストや写真でわかりやすく津堂城山古墳を解説しています。また、古墳の周囲には花しょうぶ園や草花園があり、四季折々の花を楽しむことができますので、お越しの際は、ぜひ散策してください。


うぶ5


◆小山産土神社/583-0033藤井寺市小山4丁目7番9号

小山地区の産土神。もともと小山村の人々は岡村の辛国神社を共有の形で祭っていた。しかし祭事の度に岡村の氏子達との争いが絶えなかったので、江戸時代初期に小山村独自の氏神として、現在高鷲北宮にある「大津神社」から分霊したものと言われている。本殿は一間社流造で、蟇股は桃山様式をもち、虹梁(や木鼻(等は江戸時代前期のものと推定されます。本殿の主要部分は創建当時の状態をよく止めており、藤井寺市内で最古級の神社建築として大変貴重です。また、境内には金刀比羅神社と稲荷神社が祀られており、市内では珍しい存在です。産土とは産室のある場所の砂、土の事を意味した。産室は昔は離れた所に作られ、そこで出産をしたのである。いつの間にか、産土を誕生の土地を意味するようになった。