※真田幸村
豊臣氏を滅亡へ追いやった大坂夏の陣は、慶長20年(1615)5月6日豊臣方は、道明寺の戦い・八尾の戦い・若江の戦いに苦戦を強いられた。道明寺まで進んだ真田幸村は、現在の平野区長吉あたりまで退却しひと休みし志紀長吉神社に戦勝を祈願しました。この時に幸村は神社に六文銭の紋章が描かれた軍旗と刀を奉納しましたが、刀は第二次世界大戦後に没収された。志紀長吉神社大鳥居の南側に、「真田幸村休憩所の碑」が建っている。
◆真田幸村休息所跡/平野区長吉長原4-8
戦国の武将真田幸村は、大坂夏の陣のおり、南河内誉田方面において徳川方の伊達正宗軍と一戦を交えた後、古市街道を経て大坂城へ帰城する途中、この地にて休憩し、志紀長吉神社へ戦勝を祈願すると共に、軍刀を一振りと六文銭の軍旗を奉納した。現在、休息所跡には自然石が建てられ、その裏側には幸村の句が刻まれ往時を偲ばせる。
◆川辺八幡宮/平野区長吉川辺1-4-38
創建の年月不詳であるが、石清水八幡宮の分霊を勧請したものと伝わる。往時は、社殿も壮大で社領も広く、いまの境外地字垣添の全部を包容し、社領も4町歩以上におよんだが、1704年の大和川付け替え工事よって立ち退きを余儀なくされ、社領地の大部分がその川床となった。明治5年村社に指定された。境内の楠の木には黒い龍が宿るという伝承があり、推定樹齢300年以上で大阪市の保存樹に指定されている。また、毎年9月の秋祭には大和川に御輿を担ぎ入れる「足洗い」神事に併せて仕掛け花火と打上げ花火が行なわれ、秋の川面を彩る。
・・・川辺小学校の壁面タイル画は、この周辺に大規模な遺跡郡があることを示しています。
・・・明治橋を渡って「若林」へ。旧の明治橋は「やまとがわ」看板の西側にあったと思います。
◆大堀八幡宮/松原市若林町608
建武4年(西暦1337年)に深居神社より分祀され創建される。当時、大和川を往来し年貢米や商品作物や肥料を運搬されていましたが、新大和川は推進が浅くとくに狭山池から流れてきた宮側の落堀川・東除川の合流地点が浅く水夫が川床を掘って船を動かしていたようです。そんな剣先船の運行安全や村中安全を祈念し創建されたとされています。
※「南無妙法蓮華経」「後五百歳中廣宣流布」大石塔
大和川の土堤を南へ下った若林1丁目に日蓮宗の本了寺があります。同寺は、江戸時代初期の天和6年(1620)、若林に館をかまえていた長尾氏の菩提寺として創建されました。
同氏は、越後(新潟県)の戦国大名として名をはせた長尾輝虎、のちの上杉謙信につながると伝えています。謙信の死後、養子の上杉景勝は豊臣秀吉に重用されたことから、その流れをくむ長尾氏が、いまの枚方市長尾や富田林市喜志などとともに本市の若林にも豊臣氏から土地を与えられたといわれています。若林の初代長尾氏も輝虎とよばれ、生前から日蓮宗に深く帰依して、日存を家に招いて講義を受けたといいます。輝虎は元和3年(1617)に亡くなり、正行院了喜日慶とおくりなされました。後を継いだ長尾三左衛門は、元和6年(1620)に日慶の菩提を弔うため、屋敷の1部をさいて寺を創建したのです。これが、本了寺のおこりで、開山に師僧の日存をあおぎました。日存は、大阪・谷町の本長寺なども創建し、摂津や河内での日蓮宗の流布に力を入れました。朱色に塗られた山門を入り、右手に本堂を見て進むと正面に日慶の墓があります。五輪正面に「妙法蓮華経」、地輪には「正行院了基日慶」の戒名と没年の「元和三年」と銘記したものです。高さ約2メートル50センチを測り、市域に現存する五輪塔の中で最大級のものでしょう。元和期の有力な日蓮宗信者は、このような巨大な五輪塔を各地に建てています。本了寺を創建した長尾三左衛門は、寛文12年(1672)に没しました。以後、長尾氏は日慶墓を中心として歴代の墓所をつくるとともに、本了寺の維持に努めたのでした。
★大和川に沿う落掘川に架かる西橋北詰に「南無妙法蓮華経」「後五百歳中 廣宣流布」「五百御遠諱 天明元年辛丑年 十月十三日」「宗祖日蓮大菩薩」「本了寺」と4面に大きく記された立派な題目石が現存しています。これは、日蓮の500遠忌に建てられた石塔で、天明元年(1781)ごろの本了寺の広大な寺域を示しています。
本了寺は、のち水害にあって一時、衰えますが、幕末になって32代住職の日泰が同寺を中興しました。日泰はそれ以前、ソテツで有名な堺の妙国寺32代住職をつとめた後、日蓮宗最古の法華経弘通の名刹、法華経寺(千葉県市川市)の106代住職となった高僧でした。日泰は晩年の隠居寺として本了寺を再興して元治2年(1865)2月、同寺で亡くなりました。享年65歳。歴代住職の墓石が建ち並ぶ一番手前に「弟子中」が建立した日泰の墓がみられます。こじんまりとした墓碑ですが、それがかえって、余生を静かな河内で過ごそうとした日泰の清廉さがあらわれているようです。
◆若林神社/松原市小川町147
建武4年(西暦1337年)に深居神社から分祀され創建される。江戸時代前半に今とは比べられないほど広大な境内地が盛で囲まれています。同地に小字「若林」がある上、鎮守の森が陣取場になりやすかったく戦略的拠点に適していることから、戦の際神社付近に陣取をし戦略拠点にする武将も多かったようです。