古市街道 | すくらんぶるアートヴィレッジ

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※「古市街道は東成郡平野郷町に於ける奈良街道より起り・・・(明治36年大阪府誌)」・・・と書かれていますので「宮前東」交差点にある道標を紹介しておかなければなりません。



みや1


「すぐ 道明寺、左 志ぎ山」

「右 ふじいでら、大峯山上」

「すぐ 玉つくり、左 天王寺」

弘化二年1845

・・・ここから南へ古市街道が分岐していることになります。

※魚棚組

現在町に分かれている平野郷ですが、かつては「平野本郷七町」と呼ばれ、町名は野堂・泥堂・西脇・流・市・背戸口・馬場の町でした。これは「平野(坂上)七名家」各氏が治めた地域を基に分けられてます。

平野の開発領主である坂上廣野麿の子孫達野堂氏(後の末吉氏)・泥堂氏(後の井上氏)・森氏(後の成安氏)・市氏(後の土橋氏)・三上氏・辻葩(つじはな)氏・西村氏の七名家で。因みに坂上廣野麿は坂上家きっての武人であったと伝えられています。後に一番大きい地域だった野堂が田端組、出屋敷組、魚棚組、樋屋組に分かれ、最終的に現在の「野堂東」「野堂南」「野堂北」となったのだそうです。



野堂北組法被

図柄の波と波千鳥は、野堂北地域に魚棚(うおんたな)といって魚屋が多かった通りがあった事に由来するそうです

みや2


野堂北組だんじりに刻まれた海の幸

だんじりの土露幕部分を見ると、随分おいしそうな海の幸が彫られています。鯛、亀や海を渡る兎など、台木部分には海をテーマにしたものは多いようなのですが、このような鯛や蛸など数種類の海の生き物が彫られるのは数少ないようです。野堂北が魚棚と呼ばれた地域だったので、海の幸にこだわわった珍しい土露幕彫刻が生まれたようです



野堂北地車

製作:平成4年大工:川井工務店彫師:江州上丹生彫(醒ヶ井彫)井宮勇倉井尻翠雲(三枚板)主屋根飾目正面:「やたがらす」主屋根飾目後面:「兎の餅つき」後屋根飾目:「蝦蟇仙人(左)と鉄拐仙人(右)」後屋根懸魚:「龍に乗る黄仁覧」後屋根隣懸魚:(左右で)「風神雷神」車板:“漢楚軍談”「黄石公と張良」見送り三枚板:“三国志”正面「超雲、江を截って幼主を奪う」右面「玄徳、天に祈念して巌を斫る」左面「諸将、勝軍を祝すおよび孔明、関羽が罪を問う」土呂幕(正面・左右平)「海の幸」後正面「廬教仙人」台木:「玄武」



・・・なんと「蝦蟇仙人」が彫られているのも発見できたので、ラッキーでした。


みや3


平野郷の範囲

広義の解釈では、平野郷町(本郷という)+現在東住吉区の新在家(現在名は杭全)、今在家(現在名は今川)、中野、今林、の四散郷が含まれます。喜連村との境界は、平野郷内の辰巳池から多目的の水路が西側の今川まで掘削され、掘削した土砂で「平等堤」が築かれて領地の境界線になってました。この堤が喜連村(西喜連村・中喜連村・東喜連村)にも掛かっているところから、水路の領有権を巡って南隣の喜連村と争ったことがあります。明治22年に全国の自治体に市町村制が実施され、明治元年からの野堂の表示は大阪府住吉郡平野野堂町という住所表示でしたが、明治22年からは、大阪府住吉郡平野郷町大字野堂になりました。明治29年に住吉郡が東成郡に編入された時の野堂の住所表示は、大阪府東成郡平野郷町大字野堂でした。大正14年に平野郷町と喜連村は大阪市に編入されて平野郷町の名は消え、大阪市住吉区平野○○や平野○○町になりました。その時の野堂の表示は、大阪市住吉区平野京町や平野新町、平野三十歩町、平野梅ヶ枝町、平野政所町などという名前になっています。旧平野郷地区の2012年の現在名は、大阪市平野区平野本町、平野区平野元町、平野区平野上町、平野区平野宮町、平野区平野市町、平野区平野東、平野区平野南、平野区流町、平野区背戸口、平野区西脇、平野区平野馬場、平野北になります。毎年月11日~14日までこの町内で開催される平野郷夏まつり(杭全神社例祭)で、町のだんじりが曳行される区域が平野郷になります。


※辰巳池

府道186号沿い平野区喜連東に常磐会短期大学と常磐会学園大学があります。短大の敷地は45年ほど前まで「辰巳池」という池でした。辰巳とは平野郷から見て辰巳の方向にあることを意味し、池の水は平野郷のかんがい用水として利用されていたそうです。大坂夏の陣では、幸村軍が家康本陣を急襲。家康は3里逃げてこの池に生えていたアシ群に隠れましたが、そのアシは葉っぱが一方向に向いていたため人が入っても向きが変わらず、家康が隠れているものと思わずに幸村軍は去っていった。そんな「片葉(かたは)の葦」の言い伝えが残っているそうです。他方、常磐会学園大は以前、喜連北池という池でした。学園大および隣接する団地のところはすべて池で、1599年に村人たちの力で完成したものだそうです。喜連東は少し高台になっていて、ここから西の喜連村に向かって水を流してかんがい用水として利用していたそうです。なお、間を抜ける道はかつて平等堤と呼ばれる堤防だった道で、渡来人の土木技術によって造られたということです。


みや4


・・・新しい古いはいろいろですが、「お地蔵さん」は旧道の証でもあります。また、「お地蔵さん」が「道標」を兼ねていることもありますので、失礼ながらお堂(祠)の中を確認させていただくことにしています。


みや5


◆【志紀長吉神社】◆

547-0016大阪市平野区長吉長原2-8-2306-6709-1757

日本最古の書物 古事記・日本書紀に載せられている延喜式内社であり、ご鎮座になったのは今から一二〇〇年前の平安初期頃(七九四年)であり、第六十九代後朱雀・第七十代後冷泉天皇の祭りの場となった場所である。天皇即位の祭・大祭の時に当社の東の飛び境内地(宝田)(現在の長原東二丁目六番)より全ての者に罪・穢れがつかないよう祓うものとして日蔭の蔓を供え、平安朝第五十一代平城天皇(八〇九年)より日蔭大明神の位を授けられ、神紋と定められた。

志紀長吉神社以外にも、当神社宮司が兼ねてご奉仕している神社がございます。このような神社のことを「兼務社」と呼びます。志紀長吉神社では、「赤坂神社」「産土神社」「天照皇大神社」と兼ねてご奉仕しております。

赤坂神社の創建は不詳ではあるが、文献には「南北朝時代までこの地を赤坂村とよび、後醍醐天皇が鎌倉幕府を滅亡させようとした元弘3年(西暦1333年)に河内の国の武将楠木正成が後醍醐天皇に協力し河内国石川郡赤坂村(現:南河内郡千早赤阪村)にて挙兵し足利尊氏の軍勢と建武2年(西暦1335年)に戦になった際、京都にいた足利勢に河内国石川郡赤坂村と混同されることを恐れ六反村に改められたといわれている。」と記されていることより、いまから約700年以前に創建されたものと推測されます。六反村へ改名した由来は「赤坂」という文字の「赤」を縦横棒を消して「六」に、「坂」の字の土へんをとり「反」にし以前の村名を残しつつ混同されあらされることのないようにするための苦肉の策であったといえます。また、赤坂村は、もともとは赤阪村でしたが古来より掘り起こすと赤い土器が出土したことからこざとへんの「阪」よりつちへんの「坂」に改名されたといわれています。

慶長20年(1615)大坂夏の陣に、真田幸村が戦勝を日蔭大明神(当神社)に祈願の際、神社の馬場にて休息しました。この時に軍旗と刀剣を奉納されましたが、刀剣は終戦後没収、軍旗はそのまま神社で保存しています。

六文銭軍旗(真田幸村奉納)赤地に白の六文銭の旗は、あまりに有名な真田幸村の軍旗。「大阪夏の陣図屏風」に、その旗が見られる真田の赤備えとして恐れられました。六文銭(六道銭)は三途の川の渡し賃、つまり通行料とされており、死者を葬る時に遺体と一緒に埋めるものです。真田氏は家紋に六文銭を用いることで、戦争や日頃の駆け引きについて、死をもいとわない不惜身命の決意で望んでいることを示していたと言われています。