・・・「社内入口」のお地蔵さんを探して、
◆【全興寺】◆
547-0044大阪市平野区平野本町4-12-21/06-6791-2680
高野山真言宗。 今から千三百年前の昔、聖徳太子が、平野の野中の地に小宇を建立して薬師如来の像を安置されたと、寺伝にあり、これが全興寺の草創です。その薬師堂からしたいに町が形づくられ「平野」発祥の地とも言われています。本堂は江戸時代初めの1615年"大阪夏の陣"で一部を焼失。1661年再建されたもので、大阪府下では古い木造建築の一つです。
・・・「子安地蔵」が祀られている場所で、とうとう見つけました。台座に「社内口地蔵尊」と彫られています。これまで、どこにいったかわからないとされていましたが、さすが「全興寺」さんです。みなさんもぜひ、確認してくださいね。
◆出屋敷口地蔵
この地蔵堂は出屋敷口の傍らにあったもので、その名は野堂町(のどう)の出屋敷地区であったのに由来する。田畑口とともに、藤井寺や道明寺に通じ、また町民の辰巳墓地(たつみ)墓地への参道でもありました。
◆堺口地蔵
この地蔵堂は堺口門の傍らにあったもので、西脇口とともに、中野から鷹合を経て住吉や堺に通じる出入り口でした。地蔵堂の西側の道路は環濠跡です。向かいの観音寺は昔から銀杏観音と呼ばれ、その大木は有名です。
◆流口地蔵
この地蔵堂は流口門の傍らにあったもので、大門であった木戸口から南下する道は中高野道と称し、喜連、瓜破を経て、かつて平野川の水源であった狭山池で堺から来る西高野道と合流する信仰の道でした。
・・・とうとう最後、十三口目の地蔵尊は、
◆田畑口地蔵
この地蔵堂は田畑口門の傍らにあって、藤井寺、道明寺から南河内、大和へ通じる木戸口でした。役行者像が祀られているのは、この出入口が大峯山への参詣道であることを示しています。江戸時代から古市街道といわれ、藤井寺や道明寺、大峰山へ行く道で、往来の多い賑やかな道でした。今も旧環濠内を南北に通る唯一のバス路線です。樋尻門筋から北の筋を通称「魚の棚」と呼び、海産物を扱う店が並んでいました。
★古市街道
古市街道は、摂津平野郷の田畑口(十三箇所あったと言われる木戸の一つ)から出て、出戸で河内に入り、川辺で大和川を渡り(300年あまり前は大和川はなかったので橋も無い、また橋が架かるまでは、渡し船があった時期もあるという)、大堀、若林、で丹北郡、現松原市に入り小川の深居神社の前を通り藤井寺高校の北側を進み、藤井寺市の津堂集落に入る、津堂城山古墳の西側を南に曲がり小山の産土神社前の辻を右に曲がって真南に進むと藤井寺小学校の手前で、西から来た長尾街道と合流する府道12号を渡り、光源寺の辻で東に行く長尾街道と分かれて更に南に進む。葛井寺西門を過ぎ、辛国神社の角を東に曲がり葛井寺の南門前から南に進む。野中で東に折れ誉田八幡宮の南東角で東高野街道に合流し南下すると、終着竹内街道との交叉点、蓑の辻に着く。
※明治36年「大阪府誌」
「古市街道は、東成郡平野郷町に於ける奈良街道より起り、南向して中河内郡長吉村に入り、同郡大字川邊に於いて大和川を横断し恵我村に入り左岸堤腹に沿い行進すること千餘間にして南河内郡小山村に下り藤井寺村大字岡に於いて長尾街道と合し、又、東南に岐れ本道は南行し同郡古市村大字誉田に於いて東高野街道に連結するものたり。延長二里十七町二十六間、幅員平均二間、奈良街道と略その方向を同じうし、地勢概平坦なれども、河内南部の交通は高野街道により柏原村に出づる捷路あるを以って本道は専平野郷町と古市村との間各村の往来に便せるものの如し。」
・・・「平野」から「羽曳野」まで「古市街道」で帰ることにします。