すでに「西脇口」を掲載しましたので、残りの十二口を紹介していきましょう。
◆田辺道西脇口地蔵
この地蔵堂は田辺道西脇口門の傍らにあったもので、田辺方面へ通じる木戸口でした。環濠があった頃、地蔵堂は濠を背に東向きに建っていましたが、昭和初期、濠を埋め道路を西へ伸長する際、南の道へ移され北向きとなりました。
◆小馬場口地蔵
この地蔵堂は小馬場口門の傍らにあったもので、小馬場口は田辺や、かつて平野郷の散郷であった今在家(今川)、新在家(杭全)などとの出入口であり、大念佛寺への参詣道でもありました。
◆馬場口地蔵
この地蔵堂は馬場口門の傍らにあったもので、大門の木戸口は泥堂口とともに奈良街道の大坂、天王寺方面に接続していて、大阪方面から大念佛寺への参詣口でもありました。
◆泥堂口地蔵
この地蔵堂は泥堂口門の傍らにあったもので、奈良街道の大坂、天王寺方面に通じる大門をもつ木戸口として、十三口の中でも重要な出入り口でした。地蔵に享保十二年(1727)の銘が刻まれています。
◆河骨池口地蔵
この地蔵堂は玉造、天満や守口方面に通じる河骨池口門の傍らにあったもので、道路の西側は江戸時代から明治時代にかけて、平野川を運航していた柏原船の船入(発着場)であった河骨池跡です。この周辺を俗に市の浜といい、問屋、宿場などが立ち並び、船会所もあって大層賑わった所でした。
◆市ノ口地蔵
この地蔵堂は市ノ口門の傍らにあったもので、大門の市ノ口は久宝寺、八尾から信貴山へ通じる出入り口であした。地蔵堂の位置は国道25線の拡張に伴い少し移動されています。十三口中、最も大きな地蔵で、堂前の石灯籠に享保二十一年(一七三六)の銘があります。現在は、国道25号線沿いにありますが、拡張前、この部分の道は、八尾街道でした。
◆樋ノ尻口地蔵
この地蔵堂も樋ノ尻口門の傍らにあったもので、郷から外に出るときは一身の加護を祈り、外からの変事はこの入口で退散させようとした祈願のあらわれであろう。大坂夏之陣の元和元年(1615)五月七日、徳川家康の樋ノ尻口通過を予測した真田幸村は、この地蔵堂に地雷を仕掛け大坂城へ引き上げた。予想通り家康が来て、ここで休憩したが、ちょっと座を外したときに地雷が爆発し、危うく命拾いしたという伝説があり、現在「全興寺」に祀られている首地蔵は、このときの爆発で吹き飛んだきた樋ノ尻地蔵の首と伝えられている。※交番横には、大阪市建立の、樋ノ尻口門跡の碑があります。
・・・ここには丁寧にお地蔵さんのポストカードと説明文が置かれていました。ありがたいことです。
・・・その説明の中に、「社内入口」が現存していないと書かれていました。ただ、「杭全神社」にある「田村社」壁面に「惣門」が残されているというので見に行きましたが、現在すでに撤去されていました。仕方ないので、過去の画像を掲載しておきます。さてさて、「お地蔵さん」はどこにいったのでしょうか?
・・・あれこれ調べまくった結果、どうやら「全興寺」さんに安置されているらしいとの情報を得ることができました。はたして「社内入口」のお地蔵さんは見つかるでしょうか?