はじめに
これまで「平野」については様々なテーマで取り上げ紹介してきましたが、先日の「夏まつり」などを通して、あらためて知り学ぶことも多く、きちんとテーマを「平野郷」に定めて再出発することにしました。
私自身の最大の後悔は、「南海平野駅」のすぐ横に生まれ育ちながら、その貴重な姿を「記録」として残せなかったということです。
現在は「プロムナード平野」として整備されてはいますが、駅が無くなり「商店街」はまさしく灯が消えてしまった状態にあります。
そのような状況にあって、老朽化した「実家」をこれからどうするのかという問題に直面しました。
現在、羽曳野市(古市)に住んでいるわけですが、母の快適な老後のために完全に実家を建替えることにしました。
◆摂州平野大絵図
徳川家康が、平野商人の末吉孫左衛門吉安に命じて、元和元年(1615年)の大坂の役(夏の陣)で兵火に遇った町を整備させ、町割が整った後の宝暦13年(1763年)に描かれたものです。絵図には、「古名ノ杭全荘、広野荘、平野荘ヲ今ハ平野郷町ト云フ」と書かれています。
◆平野郷十三口
平野郷と諸街道を結ぶ出入口には十三カ所に木戸口があって、惣門(代官を置かず、年寄という町内の有力者が自治を行う集落を惣という)の傍には、門番屋敷と遠見櫓、地蔵堂が設置されていました。地蔵堂は小さいですが、昔は堂内に十数名が入れる大きさだったようです。地蔵堂の役目は、平野郷の人々が惣門を出る前に、旅の道中の安全を祈るために設けられました。
◆西脇口
西脇口地蔵は南口地蔵とも呼ばれ、西脇口門の傍らにありました。この木戸口を南下すると堺口の住吉、東へ行く道と合流します。西脇口地蔵は江戸時代の建立で延命地蔵と呼ばれていたようです。今では子安地蔵と称されています。地蔵堂前の東西の道は環濠跡です。